38年間病気で寝たきりの人が歩けるようになりました。それを知ったら誰もが喜び、主をたたえることでしょう。ところが、そうなりませんでした。
そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。(ヨハネ5:10)
ユダヤ人たちは(おそらく律法学者たちでしょう)38年間病気で寝たきりの人が起きて歩いたと知って強く非難しました。安息日に仕事をした。床を取り上げて歩くことは律法違反だ。安息日の規則を破った場合、極刑になることもあり得ました。
あなたとこのユダヤ人と共通点がありませんか。職場の新人、自分よりできる人や若い人が近くに来たとき、私たちは人の欠点を探そうとしがちですね。
その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。(15節)
取り上げた床を取り上げた男はユダヤ人たちに問い詰められて動揺しました。あれは自発的な行為ではなくある人に従ったまでだと弁明しました。実際のところ男は自分を癒してくれた人が誰かを知りませんでした。(13節)男が神殿の敷地内にいた時、主イエスが彼を見つけて声をかけて下さいました。
ところで、シロアムの池の水で癒された盲人の話がヨハネ9章にありますが、その日も安息日で類似点が多いのですが、癒された人の反応は対照的でした。癒された盲人はパリサイ人に責められ追放されたのですが、主イエスと再会した折に主イエスに対する信仰を明確に言い表しています。(ヨハネ9:35~38)
38年間病気でいやされた男は、主イエスに感謝も言わず、信仰の表明もせず、むしろ、主イエスのことをユダヤ人たちに密告しました。主イエスは彼の危うさをご存じだったので、罪を犯すな悪いことが起きると厳しく言われたのだと思われます。(14節)
こうして主イエスは、ユダヤ人から迫害を受けるようになりました。(16節)安息日に行われた癒しは主イエス殺害の恰好の口実になりました。
イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(17節)
こうした中で主イエスは、ご自分が何者であるかを語られました。主イエスは大胆にも神を父と呼びました。そして、神とご自分を等しくされました。
神は世界創造以来ずっと働いておられ、安息日であっても世界を守り保つ働きをされています。それと同じように主イエスも働いており、安息日であっても人を救うし、人を癒すと言われたに等しいのです。
なぜ、主イエスは安息日に人を癒されたでしょう。それは宮きよめと同じ発想です。
神殿の庭は商売人の喧噪で満ちていましたが、主イエスは彼らを追い出し神殿という場所を本来の祈りの家に戻されました。
当時の安息日は、人が人を監視する日、束縛の日になっていました。主イエスは、安息日というシステムを本来の姿に戻そうとされたのです。体と心の休息の日、解放の日、礼拝の日、喜びの日であることを気づかせようとされたのです。
□あら捜しは何も良いものを生まない
□主イエスが自分の救い主であることを告白しよう
□安息日は喜びの日、賛美の日、解放の日