「主はナタンをダビデのところに遣わされた」(第二サムエル12:1)どこかの金持ちが貧乏人の子羊を奪って調理した話をナタンは前置きなく語りました。なぜナタンはそんな話をしたのでしょう。
ダビデが自分の罪を客観視するためです。金持ちのひどい態度に腹を立てたダビデは「そんなことをした男は死刑に値する」(5節)と自分の罪の重大性を指摘しました。
ナタンのアプローチは、姦淫の罪と殺人の罪のすべてが神に知られていることを気づかせるためです。そして、悔い改めのチャンスを与えるためでした。
罪が暴露される事は本人にとって最悪の事態ですが、神のあわれみそのものです。やり直しチャンスが提示されているのです。
ダビデが怒った時にナタンが言いました。「あなたがその男です」(7節)
あなたの番です。この言葉は私たちに言われています。
その後、神はダビデを断罪され、裁きを下されました。わたしがあなたを王とし、多くの富を与えた。それに飽き足らずあなたはウリヤを殺しウリヤの妻を自分のものとした。(7~9節)それゆえ、これからあなたの家族に災いが訪れる。あなたの妻たちは白昼公然と他人に寝取られる。(11~12節)
「ダビデはナタンに言った。『私は主の前に罪ある者です。』ナタンはダビデに言った。『主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。』」(13~14節)
ダビデは瞬時に罪を認めました。本物の悔い改めは多くを語りません。赦して下さいと要求しません。主はダビデの罪を取り去って下さいました。今日の箇所は、神がどんな罪をも赦されるという例示なのです。神のあわれみの深さが語られているのです。
「そんなことをした男は死に値する」とダビデは述べていたので、死を覚悟したはずです。神はダビデの命を取りませんでした。その代わり、ダビデとバテ・シェバの間に生まれた赤ちゃんが亡くなります。ダビデがひれ伏して祈った時(16節)、自分が死ぬべきであり赤ちゃんではないと何度も思ったことでしょう。主イエスの十字架が暗示されている箇所だと私は思うのです。
ダビデはヨアブ将軍に呼び出され、籠城戦の最終段階で戦いの指揮を執りました。(26~29節)ウリヤが死んだ戦場を訪れ、深く自分を責めたはずです。
戦いを終えたダビデは、ラバを支配していたアンモン人の豪華な冠をかぶりました。(30節)ダビデ王朝の頂点を示す象徴的な出来事でした。
けれども、ダビデが本当に輝いた瞬間は、水のように低くへりくだり、粉々に砕けた心を主に差し出した悔い改めの瞬間だったのです。
「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。
私はあなたの目に罪であることを行いました。」(詩篇51:3)
□「あなたがその男です」その通りです。
□「私は主の前に罪ある者です」真実に悔い改めましょう
□ 神はどんな罪を赦して下さるお方です