2023年6月11日日曜日

マタイ4:18~22 ペテロの第一歩 

 今日から8回のシリーズでペテロの生涯をたどります。

ペテロはとても重要な人物です。それはペテロについての記述の多さから分かります。十二弟子の中でペテロ、ヤコブ、ヨハネは側近の3人です。ヤコブの名前は福音書の中に10数回、ヨハネの名前は30数回、そして、ペテロの名前は100回以上登場します。

 福音書は言うまでもなく主イエスの公生涯の記録ですが、その内容は、主イエスの教え、奇跡、十字架と復活です。4つの福音書は著者が異なるのでそれぞれの個性が出ていますが、ペテロとイエスさまとのエピソードは必ず含まれています。

 なぜ、ペテロの事がこんなに多く取り上げられているのでしょう。ペテロは私やあなたのことだからです。4人の著者はペテロの中に自分を見ているのです。ペテロという人物に対して主イエスが接した様子から、主イエスの人柄、主イエスの愛が分かるのです。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19) 

主イエスが十二弟子を招く時は、「わたしについて来なさい。」と言われました。誰に対しても基本は同じです。収税所に座っていたマタイにも「わたしについて来なさい」(マタイ9:9)と言われました。ピリポに対しても「わたしに従って来なさい」(ヨハネ1:43)と言われました。

主イエスについて行くのは難儀なことなので、とても私にはできないと言う人がいます。それは、主イエスについて行くことの素晴らしさに気づいていないからです。

主イエスについて行くとは、第一に、いつも主イエスが前を進まれるという意味です。
 主イエスは私たちの前を歩かれるので私たちは後からついて行けばよいのです。それは安心なことです。主イエスが目の前で模範を示し、教えてくれるので多くの事を学べます。主イエスが道を指し示し、ビジョンを見せてくれます。自分では考えもつかなかった新しい事に挑戦できるようにしてくれます。主イエスについて行くことで、豊かにされ、成長し、可能性が広がるのです。

主イエスについて行く第二の意味は、いつも主イエスが一緒だということです。
 主イエスについて行くなら、主イエスと心の交流ができます。主イエスの言葉がいつも聞こえるし、こちらの考えも聞いてもらえます。助けてもらえるし、私たちも何かの役に立てます。失敗したときには叱責の言葉、落ち込んだ時は慰めや励ましの言葉を受けられます。主イエスの愛を受け取れますし、私たちも主イエスに愛を表すことができます。

ペテロが主イエスに招かれた場面をイメージして下さい。無学で普通の人のペテロ、なまりのある方言を話す一介の漁師が、主イエスさまに選ばれて招かれたのです。ペテロはきっと嬉しかったと思います。主イエスも笑顔で声をかけて下さったと私は想像しています。ペテロは自分の価値を認められた事を心から喜び、ペテロが必要だと言って下さった事を光栄に感じたはずです。

ペテロは躊躇なく網を捨てて主イエスについて行きました。この第一歩が、彼の人生を祝福に満ちたものに変えました。その結果、多くの人々がペテロを通して主イエスを知り、信仰に導かれ、教会が励まされました。今では、世界のどこの国にも「ペテロ」という名前の人が大勢います。

あなたも、ペテロのように主イエスについて行きましょう。

→あなたの番です
□選んでいただいたことを感謝しよう
□主イエスに一生涯ついて行くと心に決めよう
□主イエスが前を進まれるので、私たちは豊かにされる

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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