ハンナは幼いサムエルを祭司に委ねる時、どんな気持ちで何を祈ったのでしょうか。
ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。(第一サムエル2:1~2)
子供が生まれる前のハンナは<私を見て下さい>(1:11)と願うばかりでしたが、サムエルを手放す時には視点が上に向かい、喜びに満ち、「聖なる方」をたたえていました。「聖なる方」、そして、あなたのような神は他にないとハンナが述べましたが、この表現は旧約聖書で初めて登場したものです。
ハンナの祈りに答えて下さった事から慈しみ深い神と呼び掛けても良かったです。不妊のハンナからサムエルが生まれた事から全能の神と呼び掛けることもできました。でも、ハンナの心に浮かんだ神の本質は「聖」でした。ハンナは聖なる神の臨在に触れて心から礼拝しました。
聖なる神を知り、聖なる神の臨在に触れると何が起こるのでしょう。謙虚になります。子供が生まれた事で、ペニンナに復讐できたとか、やればできると傲慢になりやすいタイミングですが、横柄になることを自ら戒め(3節)、「私の角は主によって高く上がります」(1節)とあるように、劣等感や卑屈さから離れ健康な自己認識を持てました。
聖なる神を知ると、次に、世界を見渡す展望台に立てます。世界と国々と私たちの人生を治めておられるのは神であると心の深い所でうなずけるのです。
権力者や金持ちが世界を治めているよう見えます。けれども、主の御手が動くなら、弱い者が強くされ(4節)、貧しい者が富む者とされる(8節)のです。また、生きるも死ぬも死の主権のもとにあると気づきます。(6節)
聖なる方に目を向けて賛美をしてきたハンナは最後に、国を治める王についての洞察を主から与えられました。(9~10節)
主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」(2:10)
当時のユダヤには全国を治める王はおらずバラバラで、良い指導者が求められていました。主が王を選び油を注いで任命して下さることをハンナは願いました。
「人は、自分の能力によっては勝てない」(9節)とあるように、人間の力によってのし上がる王ではなく、「敬虔な者」(9節)としての王です。
この祈りは第一サムエル全体のストーリーを表し、自分の力に頼るサウル王と敬虔に歩むダビデの姿が予告されています。今は幼子のサムエルですが、やがて王に油を注ぐ役割を担うのです。
最後に考えましょう。ハンナはなぜこのような賛美をささげることができたのでしょう。
何も兆候のない時のハンナは、神が赤ちゃんを産ませて下さると信じました。そして、与えられる事を前提にして、その子を通じて主に仕えたいと願いました。このささげる姿勢、用いて下さいと願う態度が今回のハンナの賛歌を生み出す原動力になっています。
□聖なる神を礼拝しよう
□主権者の神に目を大きく広げて頂こう
□弱くても強くされる、貧しくても富む、敬虔な者は守られる
□主よ、私の角を高く上げて下さい