2023年12月10日日曜日

詩編46篇 神は避け所

あなたにとって神はどんな方ですか?
 その神を知っていることにより、あなたの心はどんな状態になっていますか? 

詩編46篇の作者に尋ねたらこういう答えが返って来るでしょう。神は、避け所であり、力であり、助けだと知っています。だから恐れません。

普通、恐れは幸せな時には感じません。困難、悩み、敵の攻撃、病気に襲われた時に感じるものです。どんなに悲惨な事になるか想像がつくので、悲観的になるのです。
 46篇では、様々な危険が迫っていることを承知しつつも、「恐れない」と宣言しているのです。これは信仰告白そのものです。私たちも「恐れない」と言える人になりたいです。

「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない。」(詩編46:1~2)

神とはどんな方でしょう。避け所です。私たちが弱り果てて逃げ込む以外に道がない時、神が避難所になってくださいます。旧約聖書の時代なら、敵に追われて逃げ込む砦があるのと同じです。そこには矢も槍も届きません。

時には戦う必要がありますが、そんな時に力を貸してくれるのが神です。そこにある助けという意味は、助けがすぐそばにある、いつでも神は助ける用意をしているという意味です。

こうした信仰を持っているので、何が起きても恐れないと言えるのです。たとい山が海に沈み白波が湧きたつような大事件になったとしても、恐れないと言い切りました。(1~3節)

 「川がある。その豊かな流れは、神の都を喜ばせる。」(4節)とありますが、エルサレムは山の頂上にある町なので川は流れていません。神が避け所であると分かった人は、目に見えない祝福の川がいつも流れていると気づいた人なのです。

 

 かつてヒゼキヤ王はアッシリア軍に包囲され窮地に陥ったことがありました。ある朝、神の奇跡が行われました。敵兵18万5千人が何らかの理由で死んだということが第二列王記19:35に書かれてあります。詩編46:5~10の内容と良く似ています。
 「神は朝明けまでに、これを助けられる」(5節)
 「来て、見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた」(8節)
 「やめよ。知れ、わたしこそ神」(10節)

 ヒゼキヤ王の出来事と良く似た出来事がありました。預言者エリシャの家を隣国アラムの兵隊が取り囲んだことがありました。エリシャに仕える若者は取り乱しましたが、エリシャが祈ると若者の目が開かれ、天の軍勢が山に満ちている姿が見えました。(第二列王6:17)神とは大勢の兵士らの上にたつ司令官なのです。ですから、神を「万軍の主」と呼ぶのです。万軍の主という表現はイザヤ書に50回、エレミヤ書に70回出てきます。

 「万軍の主はわれらとともにおられる。
 ヤコブの神はわれらの砦である。」(7節、11節)

 7節の言葉は11節でも繰り返されています。礼拝の時、この部分を民衆が歌い、その他はレビ人の賛美リーダーが独唱したのでしょう。

 「ヤコブの神」とあります。わがままで人を押しのける弱さ丸出しのヤコブを見捨てないお方が神なのです。神とは力ある方、万軍の主でありつつ、弱い者を支えて下さるあわれみ深い神でもあるのです。そのような神を知っているので、恐れないのです。

 この詩編の素晴らしさは、「我ら」という言葉にあります。本来、恐れの感情は周囲の人々に伝染し、弱気や心配を増幅させるものです。神を避け所と確信した人は、恐ないという信仰を持ち、その信仰を周囲の人にも伝えるのです。それで、「それゆえ、われらは恐れない」と告白するようになったのです。詩編46篇から見えて来る景色は、民衆が肩を組み、神は我らと共におられる、神は我らの砦であると賛美し主を礼拝する姿です。

あなたの番です。今日、心配事がありますか。まず、1節と2節を暗記して下さい。あなたが信じている神がどんな神かを確認しましょう。その信仰を土台として、我らも恐れないと告白しましょう。

 □神は避け所、苦しむ時にそこにある助け。
□私たちは励まし合い、恐れない。
□万軍の神、ヤコブの神が共におられる。

 

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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