では、幸いな人とはどんな人なのでしょう。詩篇40篇によると、主に助けられたと気づく人、「私はここにいます」と言える人、主への信頼を止めない人のことです。
1、主に助けられたと気づく人(1~6節)
ダビデは、「滅びの穴」や「泥沼」のような困難から自力で脱出できませんでした。主がそこから引き上げて下さいました。思わず賛美が出て来ましたが、その新しい歌も主が私の口に授けて下さったものだと気づきました。大切な真理を悟ることができたのも、主がダビデの耳を開いて下さったからだと分かりました。
「幸いなことよ、主に信頼を置き」(4節)
主に助けて頂いた、と気づく人は幸いなのです。
2、「私はここにいます」と主に言える人(7~10節)
そのとき私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」(7~8節)
神が求めておられるのは大量のいけにえではない(6節。参考:ミカ書6:6~8)とダビデは理解していました。主が求めているのは私たちの自発的な献身姿勢なのです。英語聖書で7節は、「私はここにいます。私は来ました」と訳しています。少年サムエルが主の前に出た時の応答に良く似ています。(第一サムエル3:8)私をお使い下さいという態度です。
巻物とは律法を意味すると思われます。律法には神が私たちに望んでいる事柄、神のみこころが書いてあります。心を尽くして神を愛すという教えも、自分のように隣人を愛すという命令も律法の書に書かれてあります。(申命記6:5、レビ記19:18)ダビデは、私がすべき事が書いてあると理解したのです。その事を言い換えると、「あなたのみおしえは私の心のうちにあります」となるのです。
ローマ人への手紙12:1に、自分を主にささげることが真のいけにえであり、神のみこころを見分けて行うことが勘所だと書きましたが、まさにそれはダビデが理解し実行していた事だったのです。ダビデはみこころを行うことを喜んでいました。あなたはどうでしょう。
2、主への信頼を止めない人(11~17節)
12節にあるように、人生においては二つの苦しみを避けられません。数多くのわざわいや試練がやって来る事と、自分の罪や咎で苦しむ事です。次から次へと戦いは襲ってきます。そんな時でも、主への信頼を止めてはいけません。神の助けを求めましょう。「主は大いなる方」(16節)と言える時が必ず来ます。
神の義、神の恵みや愛、主のあわれみ、主の真実、主の助け。それは決してすたれることがないのです。
「主よみこころによって私を救い出してください。主よ、急いで私を助けてください。」(13節)
□今、私はここに来ています。
□主のみこころを行うことを喜びとして生きる