神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、
キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
(エペソ1:1)
手紙の書き出しは今も昔も同じで、差出人が誰か、受取人が誰かを書くものです。パウロからエペソ教会へ。本来はそれで十分です。ところがパウロは、自分が誰か、受取人が誰かを独特のタッチで説明しました。
パウロの名前についてひとこと説明しておきます。サウロは彼のヘブル名ですが、使徒13:9では「別名パウロ」と書かれています。第一回伝道旅行からはパウロとして表記されています。
パウロは神のみこころによって使徒とされた事を自覚していました。また、手紙の受取人にも、使徒からの手紙として読んでほしいと願っていました。使徒という言葉は、使命を与えられ遣わされた者を意味します。主イエスはそうした目的をもって十二弟子を選び「使徒」と名付けられたのです。(マルコ3:14)
ところでパウロは、自分が「使徒と呼ばれるに値しない者です」(第一コリント15:9)と本音をもらし、自分は「罪人のかしら」(第一テモテ1:15)であると生涯にわたり意識していました。神のみこころによって使徒とされた奇跡と感激と覚悟を忘れていないのです。
パウロはタルソで生まれたベニヤミン族に属するユダヤ人で、律法を厳格に守るパリサイ派でクリスチャン迫害の中心人物でした。(使徒9:1~2)ところがダマスコ途上で復活の主イエスに出会い回心しました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と主イエスに言われてサウロは混乱して尋ねました。「主よ、あなたはどなたですか」(使徒9:4~5)サウロのすべての固定概念が崩れ去り、よみがえられた主イエスの確実性に気づき、主イエスを信じ従うことを決めました。
ダマスコ在住のクリスチャン、アナニアはサウロを訪ねて主イエスからの使命を伝えるように言われました。サウロは主イエスの名を異邦人に伝える「選びの器」(使徒9:15)として召された人物で、いわば13番目の使徒になったのです。
アナニアはサウロと初めて出会った瞬間、「兄弟サウロ」と親しく呼びかけました。主イエスと同じ視線にならなければ決して言えない言葉です。
パウロはエペソのクリスチャンを手紙の冒頭で「聖徒」と呼びました。聖徒とはマザーテレサのような偉業を成し遂げた人のことではなく、キリストの十字架によって罪赦され、きよめられた人、普通のクリスチャンを指す呼び名なのです。アナニアもエルサレムのクリスチャンを「聖徒」(使徒9:13)と呼んでいます。キリストのまなざしを通して私たちの仲間を見ると聖徒であることに気づくのです。
自分は誰なのか。
私のアイデンティティーは何か。中学生や高校生は真剣に考え、青年たちも自分探しをし、ある人は仕事を止めて海外留学して自分を見つめます。子育てに忙殺され日々の暮らしに疲れ切った主婦も私は誰なのだろうと考えます。会社を退職して時間を持て余して私は誰だろうと考えます。どうしたら自分を見つけることができるのでしょう。
神を見上げる時に本来の自分が見えてきます。神との関係がすっきりすると自分は自分で良いのだと納得できます。人生のX軸とY軸の原点を神として認識しましょう。神が私に望んでおられることを祈りながら理解しましょう。そうすれば自分の位置が分かります。
あなたもパウロのように自己紹介することができます。どんな過去があっても、どんな弱さがあっても、あなたは神に愛されています。罪赦されて聖徒とされています。忠実な者と認められています。主から使命を頂いています。これから新しい方向性を示されるかもしれません。
そんなふうに自分を認識できると、周囲にいる聖徒たちへのまなざしが優しくなります。この人たちも神の愛された人々、神のために歩む人々だと思えるのです。
□あなたは誰ですか?
□神の眼差しで自分を見ると私の姿が見えて来る
□キリストの目で周囲の人を見てみよう