2022年3月13日日曜日

エペソ1:2

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
 恵みと平安があなたがたにありますように。(エペソ1:2)
 

 
相手の幸せを願う手紙

当時の手紙の書式は、差出人の名を書き、宛先を書いたら、ギリシア語でカイレイン(挨拶)と書くことになっていました。日本でも「拝啓」と書きますが形式的なものですね。パウロは、通常の形式を廃して、カイレインではなくカリス(恵み)と書きました。

さらにエイレンエー(平安)も加えています。ヘブル語ならヘセドとシャロームになります。パウロは彼の手紙全部に同じ挨拶文を用いています。(ただし、愛弟子テモテに対してだけ「あわれみ」が付け加えられています)

パウロが相手の幸せを願って手紙を書いたことが挨拶文からも分かります。あなたも手紙やEメールを書く時、その人の幸せを願い、恵みと平安を祈ってから書いて下さい。詩篇41:1に「幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は」とありましたが、相手の幸せを願って手紙を書く人は幸いな人だと私は思います。


恵み

パウロは律法学者として旧約聖書に精通していたので、父なる神からの恵みがどれほど素晴らしいものか知っていたはずです。

 詩篇23:6には「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう」と書かれています。詩篇32:10では「主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる」、詩篇36:10でも「注いでください、あなたの恵みを、あなたを知る者に」とあります。すべての人は、父なる神から注がれる恵みが必要です。

今日の聖句を注意深く読んでみましょう。父なる神から恵みがあるようにではなく、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」の恵みとなっています。

 パウロが現役の律法学者だった頃、父なる神と誰かを同じレベルで並べて書くことは絶対にしませんでした。それは神への冒涜になるからです。けれども、復活されたイエスと出会ってからは、パウロはイエスさまが神であると知り、自分の主として仕えるようになりました。

パウロは、旧約聖書に書かれていた父なる神からの恵みを、主イエスと出会ってから実体験したのです。自分のような人殺し、罪人の頭、迫害者に対して主イエスは声をかけて下さった。私を愛し、赦し、使徒として遣わして下さった。驚くばかりの恵みを受けたのです。受けるに値しない者への過分な祝福を実際に受け取ったのです。だから、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」の恵みがあるようにと祈っているのです。

律法学者当時のパウロなら、外国人であるエペソ人と自分を「私たち」とくくることは絶対にしません。異邦人は宗教的に汚れていると考えていたからです。けれども今は、同じ父を持つ子供同士、家族の一員として親しみを込めて「私たち」と言っています。神の恵みを知った人は心が広げられ、今まで嫌っていた人でさえ兄弟と呼べるのです。

 

平安

詩篇を読むと、戦いや悩みの最中に神が穏やかな心を与えて下さることに気づきます。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、あなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)、「私は平安のうちに言った。『私は決して揺るがされない』」(詩篇30:6)。パウロは父なる神が下さる平安の意味を知っていました。

パウロは、実体験としても主イエスの平安を経験しました。コリントで困難に出会った夜(使徒18:9~10)、エルサレムで不利な裁判を受けた夜の牢獄で(使徒23:11)、主イエスに励まして頂き、平安に包まれました。「わたしはあなたがたに平安を残します」(ヨハネ14:27)と言われた主イエスの約束通りの平安でした。

あなたの上に父なる神と主イエス・キリストからの恵みがありますように。その恵みを周囲の人にも分けることができますように。

特に、心配ごとや困難の中にいる人に父なる神と主イエス・キリストから平安がありますように。

 □神と主イエスから、恵みと平安があるように

 □恵みを受けて、心が広げられますように

 □戦争と悲嘆と困難の場に主の平安があるように

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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