(エペソ1:3)
神への壮大な賛美の言葉が始まります。3~14節の原文は一つの文章で切れ目がありません。神をほめたたえると3節で述べた後も、6節、12節、14節でも「ほめたたえる」という言葉を繰り返しています。あふれるばかりの祝福を注いで下さった三位一体をたたえて礼拝をささげています。霊的祝福が具体的にどんなものかは4~14節で語られます。
1、主イエスの父
「父なる神」と言わずに「私たちの主イエス・キリストの父である神」と言っています。なぜでしょう。神の本当のお姿を私たちに解き明かされたのがイエスさまだからです。
神は確かに偉大できよく完全なお方だけれど、恐ろしい方ではない、遠いお方ではない、わたしの父だとイエスさまは教えて下さいました。主イエスは、「わたしの父の家」「わたしの父のみこころ」などと福音書で35回も「わたしの父」と言われています。
律法学者はこの主イエスの言葉を聞いて冒涜だと激怒しました。
「アバ、父よ」(マルコ14:36)と幼児語で親しく呼びかけたこともありました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方」(ヨハネ20:17)と言われ、イエスさまの父を私たち人間の父と呼んでよいのだと教えて下さいました。
主イエスはたとえ話を使って、神が愛情深い父なのだと教えて下さいました。財産を使い果たし裸足で帰って来た放蕩息子を見つけて走り寄り、抱きしめた父(ルカ15:20)こそがまことの神だと示して下さったのです。
パウロは、主イエスの父を自分の父として礼拝し、心をこめて賛美しました。それは、主イエスが教えて下さった「主の祈り」の趣旨に沿ったことです。まず最初に父があがめられるように、父なる神の御名が聖なるものとされるよう祈りなさいと主イエスは教えて下さいました。
私たちもパウロをまねて、私たちの主イエス・キリストの父なる神さまと呼びかけてみましょう。主イエスが親しみを感じておられた父なる神が、今、私の父となって下さった光栄をかみしめることができます。
2、祝福の神
聖書の神は、ひとことでいえば、祝福の神です。
私たちに喜んで良きものを与えたいと神は願っておられるのです。
「天上にあるすべての霊的祝福」とありますが、天にあるとは神が持っておられると考えるとよいでしょう。祝福とは、人に分け与えることのできる最良のもので、人が最も必要としているものです。聖書全体では物質的祝福と霊的祝福の両方が語られています。
神は世界を創造されるとすぐに被造物と人間を祝福されました。(創世記1:22、28)子供が生まれることも、家畜が増えることも、穏やかで平和な日々も、健康や長寿も神が下さった祝福なのです。神はアブラハムを祝福し、その子孫、また地上のすべての部族に及ぶ祝福を約束されました。(創世記12:2~3)。
「主は私たちをみこころに留め、祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も大いなる者も。」(詩篇115:12~13)
新約聖書にも祝福の記述がたくさんあります。主イエスは子供たちを祝福されました。(マルコ10:16)5つのパンと二匹の魚を祝福して(マルコ6:41)人々に配られました。復活後に弟子たちと別れる時、「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。」(ルカ24:50~51)という姿は印象的です。
「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(第一ペテロ3:9)とありますが、その通りなのです。私たちは神からの祝福をしっかりと受け止め、味わい、喜び、神に感謝をお返しすべきなのです。
「ほめたたえられますように」、「霊的祝福」、「祝福してくださいました」という言葉があります。この三つは原語では同じ種類の言葉で、ギリシア語でユーロギアといいます。パウロは意図的に同じ言葉を使って強調しました。ユーロギアは、神から人に向けられた時は「祝福」になり、人から神に向けた時は「賛美」と訳されています。
神は喜びを持って私たちに祝福を与えて下さいました。人は喜びを持って神に感謝をささげます。ここに喜びのコミュニケーションが生まれます。私たちと私たちの父との交わりが太くされ、生き生きしたものになり、神と共にいる幸いを体感できるのです。
□主イエスの父なる神は、私のお父さんです
□私たちは、祝福をいっぱいもらっています
□賛美して、きちんとお礼をしよう