私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:5)
霊的祝福の第二番目は、神の子にして頂く事です。神はあらかじめ、私たちを神の子にすると決めておられました。
1、みこころの良しに基づき
私たちは偶然に神の子になったのではありません。神はご自分の考えではっきりとお決めになったのです。「良し」とはユードキアという言葉で喜びを意味します。神は私たちを子にするとお決めになった時、喜んでおられました。
2、イエス・キリストによって
神の子になるという事は、分かりやすく言えば養子縁組です。その手続に深く関わって下さったのが救い主イエスさまです。3~14節は長い一つの文章になっていますが、「キリストによって」「キリストにあって」という表現をパウロは意図的に繰り返しました。人間が良い行いをしても神の子にはなれません。十字架にかかられたイエスさまを通して神との道が開かれたのです。
3、あらかじめ定められた
神の子になる事について最も有名な聖句はヨハネ1:12です。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」主イエスを信じたので神の子になれたと、私たちは理解してきました。
ところが、今日の箇所エペソ1:5を見ると、父なる神が私たちより先に、私たちをご自分の子にするとあらかじめ定めていたことが分かります。
イエスさまが「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び」(ヨハネ15:16)と言われましたが、私たちが神の子になれたのも、神がすでに心で決めておられた事が先行していたのです。
4、ご自分の子にしようと
神は、私たちを罪の奴隷状態から、滅びから救い出して下さいました。でも、救われた者をそのまま放置したら元の木阿弥になってしまいます。救われた者を神の家族の中に受け入れ、心を通じ合わせ、神と共に生きる素晴らしさを教えてあげたいと神は考えました。最終的には、神が持っておられる最良のものを与えたい、財産の全部を引き継がせたいとお考えになったのです。(ローマ8:15~17)
主イエスが語られた放蕩息子のたとえは、神の子とはどんな立場なのかを教えてくれます。息子は父からもらった財産を使い果たし、食べ物もなく、乞食の姿になって実家に戻りました。父は息子を見つけて走り寄り、息子は父にこう言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」(ルカ15:21)自分の罪やふがいなさ、父への反発や親不孝など考えると、子供の資格が無いと考えたのです。けれども父は、放蕩息子に良い着物を着せ、指輪をはめ、子牛をほふってごちそうを振る舞いました。
父なる神は、私たちを本当の実子と扱い、愛し、与え、支え、喜び、決して離れないとお決めになったのです。
5、人間の親たち
若い夫婦は、赤ちゃんのいる生活を夢見て将来を楽しそうに語り合います。まだ妊娠するはるか前から、まだ見ぬ子供をすでに自分たちの子供にしています。
二人は、出産日の前に、子供に着せる服を買い、ベビーベッドを用意し、子供の名前の候補を100も選んだりします。赤ちゃんが生まれて来たら、私がママよ、僕がパパだと自己紹介します。そして言います、あなたは私たちの子供だよ。あなたに必要なものはすべて与える。
お母さんは出産の時、文字通り命をかけて赤ちゃんを産みます。生まれた子供が大きくなった時、お母さんがどんなに苦労して生んでくれたか、お父さんがどんなに頑張って仕事をしてくれたかが分かると、親への感謝と尊敬が自然に生まれます。
父なる神が、まだ見ぬ私たちを子にすることを楽しみにしておられたと知ると、私たちも神への感謝と賛美が生まれてきます。3~14節の神への壮大な賛美の言葉はこうして生まれたのです。
□神は私の事をずっと前から喜んでおられた
□私は神の家族の一員、神の子どもになっている
□素晴らしい神をほめたたえよう