このキリストにあって、私たちはその血による贖い、
背きの罪の赦しを受けています。
これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)
1、現在形の霊的祝福
父なる神は、はるか昔、私たちを選び、子にしようとあらかじめ定められました。3節から6節にわたってパウロはいわば<過去形の霊的祝福>について述べてきました。今日の7節は、それと比較するなら<現在形の霊的祝福>と呼ぶことができます。
「受けています」という言葉はギリシア語ではエコー、持つという意味です。英語聖書はWe haveと直訳しています。車のキーを持っているか、持っていないかが明瞭なように、持つという動詞は、今、この手に何かを持っていることを確認させてくれます。
地球は回っていると私たちは言いますが、現在形で言います。普遍的な真理を説明したい時は現在形を使うものです。遠い昔に父なる神がして下さった霊的祝福だけでなく、今、現在、私たちは確かに贖いを持っています。罪の赦しをしっかりと持っています。それは、今日も真理であり、明日も変わりません。
2、贖いと赦しは一つ
旧約聖書には「贖い」という言葉が何度も出てきます。ルツ記のテーマも贖いでした。
「あなたの御名はとこしえから『わたしたちの贖い主』」(イザヤ書63:16)と言われていました。
借金を背負い、やむなく先祖代々の土地を売り払うことがあります。親戚のだれかが大金を払ってその土地を買い戻してくれることもありましたが、その行為を「贖い」と呼びました。土地を持っていなければ、自分を奴隷に売って借金を払う場合もありました。奴隷になったその人を自由にするため誰かがお金を払ってくれる場合も「贖い」といいます。
かつての私たちは、罪を犯し滅びという刑罰を避けられず、罪の奴隷としての毎日を送っていました。主イエスは「その血による贖い」、つまりご自分の血を流して命という代価を払って私たちを自由の身とし滅びから救い出して下さいました。
「多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)
罪のことはギリシア語でハマルティアと言い、新約聖書に175回登場します。でも今日の箇所ではパラプトーマという別な言葉が使われて「背きの罪」と訳されています。どんな罪も赦されます。私たちの善行や努力で赦されるのではなく、「神の豊かな恵み」によって赦されるのです。
贖いと罪の赦しは一つの事です。十字架で主イエスの命がささげられたという客観的な側面に立てば、贖われたと理解できます。罪人の立場に立てば、罪が赦されたということが分かるのです。
3、イースターとの関連
パウロは第一コリント15:17で主イエスの復活と罪の赦しの関係に触れ、キリストがよみがえらなかったらあなたがたは今もなお罪の中にいると述べました。主イエスが十字架で死なれただけでは不十分で、復活がなければ贖いは完成せず、罪の赦しの確証もないと説明しました。贖いも赦しも持っていると私たちが言えるのはイースターのおかげなのです。
「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:25)
マルコの福音書16章に女性達が主イエスの葬られた墓に向かう様子が書いてあります。主イエスの死を悲しみながらも、香油を塗って最後のお別れをしたいという気持ちが伝わってきます。大きな石をどうやって動かすかの具体案はないまま、気持ちだけが先に進んで行きました。見ると、石はどかされ、中が見えました。天使が現れこう言いました。
「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコ16:6)
ハレルヤ!主イエスは2000年前の今日、イースターに、よみがえって下さいました。主は今日も生きておられます。それゆえ私たちは大きな声で確信を持ってこう言えます。「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。」
□私たちは贖いと罪のゆるしを持っています
□主イエスのよみがえりが救いの確証です