また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、
聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、(エペソ1:18)
パウロはエペソの人々のためにとりなしの祈りを始めました。17節では、神をもっと知ることができるようにと祈りました。次に18節で、心の目がはっきり見えるようにと祈りました。
私たちの普段のとりなしの祈りと比べてみて下さい。どこが違いますか。
私たちは、あの人の病気が癒されますようにと祈ります。あの人が直面している人間関係のトラブルが解決しますようにと祈ります。お金を与えて下さい。入学試験に合格しますように。願いがかないますようにと具体的な事を祈ります。パウロも、私たちと同じようなとりなしの祈りを何度もしています。でも、今回は、とても大きな視点で祈っています。枝葉の祈りでなく、本質を突いた祈りです。
18節を手がかりに考えると、心の目とは私たちの未来に関する視点だと分かります。心の目が開かれると、希望が与えられ、私たちが受け継ぐはずの神からの資産とそれに伴う栄光が見えてくるのです。パウロは、これらのものが見えていました。
私たちが犯した罪が十字架で赦されたことを私たちは知っています。それは、私たちの過去に関する恵みと言っても良いでしょう。私たちが召されて救われたのは、その過去の恵みを受けるためだけではありません。神は私たちに将来の祝福と栄光をはっきりと示し、それによって現在を希望を持って生きられるようにして下さいました。以下の聖句も、私たちが召されたのは将来の御国と栄光にあずからせるためだと教えてくれます。
「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神」(第一テサロニケ2:12)
「そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。」(第二テサロニケ2:14)
今日の聖句は、私たちの人生という連続ドラマの最終回がハッピーエンドだと教えてくれる予告編なのです。だから、辛い時でも希望を持てるのです。日々の苦労が報いられる日が来るのです。
私たちの将来にはどんな事が待ち受けているのでしょう。罪と失敗の多い私たちですが、聖霊によってきよめれ、キリストに似た者にされます。主イエスがこの地上に再臨されます。私たちが死んだ後には復活の体が与えられます。神の国が目に見える形で到来します。
心の目が開かれることを祈り求めましょう。身近な人の心の目が開くようにとりなしの祈りをしましょう。
心の目が開かれるとスケールの大きな視野が与えられます。あなたの仕事と人生とその将来を大きく考えてみましょう。あなたに与えられた賜物の用い方を長い人生というスパンで考えてみましょう。教会の将来像を神の視点で大きく見直してみましょう。あなたの視点を大きく広げましょう。
靴職人だったイギリスの若者は、「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ。」と言って、インドに出かけ、インドの複数の言語に聖書を翻訳しました。この人は有名な宣教師ウイリアム・ケアリです。
預言者エリシャを抹殺するためにアラムの大軍が彼の家を包囲したことがありました。エリシャに仕える若者はその兵士たちを見て恐れ惑いました。そこでエリシャは彼のために<目が開くように>と祈りました。「エリシャは祈って主に願った。『どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください』」(第二列王記6:17)すると若者の目は開かれ、アラム軍の背後の山を覆う天の軍勢が見えたのでした。
主よ、私の目を開いて下さい。私の身近な人の目も見えるようにして下さい。
□心の目が開くようにと、身近な人のため祈りましょう
□将来の展望が大きく開けますように
□希望を持ち続けられますように