この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、
キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上でご自分の右の座に着かせて(エペソ1:20)
父なる神は、大能の力を主イエスのうちに集中されました。その結果、主イエスは死からよみがえり、神の右の座に着かれました。
主イエスが十字架で息を引き取った後、ローマ兵が槍で突いたので心臓は破れ蘇生の可能性も絶たれました。アリマタヤのヨセフは遺体となった主イエスに亜麻布を巻き、彼の墓に納めました。金曜と土曜が過ぎ、日曜になると、主イエスは健康な肉体で弟子たちの前に現れました。これが主イエスに働いた神の大能の力です。
その後、主イエスは40日間たびたび弟子たちに現れて神の国について語られました。そして、オリーブ山から天に昇っていかれました。(使徒1:3、1:9)礼拝の時に唱える使徒信条で、「天にのぼり、全能の神の右に座したまえり」と私たちも信仰告白しています。主イエスは悲惨な十字架から神の栄光の位に引き上げられました。ここにも、父なる神の大能の力が働いています。
主イエスは、現在、神の右の座におれます。王の右に座るという表現にどんな意味があるのでしょう。王が何かを決定すると、王の右手側にいる首相などの実務執行者が王の言葉を実行していきます。王の右に座すとは、王から最高権限を委譲された人を指します。ヨセフもエジプト王の右に座す者でした。主イエスは、父なる神の栄光と力をすべて身に帯びて神の右に座しておられます。
ガリラヤ伝道の時のイエスさまや十字架と復活の時のイエスさまは私たちの意識に深く残っています。けれども、神の右に座す主イエスの姿は、私たちにとってはあまりなじみがありません。
実は、大祭司らから尋問された時に、はっきりと主イエスはこう語っておられました。
「今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」(ルカ22:69)
主イエスが神の右に着座されたのは、私たちの罪の赦しが完了した証拠です。
「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座につかれました。」(ヘブル1:3)
私たちに聖霊が注がれたのは、主イエスが神の右に座られたゆえにできたことでした。
「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いで下さったのです。」(使徒2:33)
一般的に、大きな権威や栄光を得た人は、その力を自分の欲望達成に使う場合が多くあります。主イエスは最高権力と神の栄光を所持されていても、地上におられた時と同じように謙虚で、思いやりある態度をお持ちです。
では、主イエスは現在、神の右におられて何をしておられるのでしょう。父なる神から委任を受けた働きをされながら、とりなしの祈りをされています。
「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)
主イエスは、私たち弱い者のために祈り、私たちの必要を父なる神に告げ、私たちを応援し、私たちに大能の力を付与しようとしておられるのです。
初代教会のリーダーの一人ですぐれた伝道者であったステパノは、その活動のゆえに逮捕され最高法院で裁判を受けました。
「聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』と言った。」(使徒7:55~56)
ステパノはこの直後、石打の刑で殺されました。神の右に座しておられるはずのイエスさまが立ち上がっておられます。ステパノは主イエスと視線が合ったのかもしれません。主イエスは座っていられず立ち上がって応援しておられたのかもしれません。まもなく殉教の死に至るステパノを天に迎えようと、身を乗り出し、手を伸ばし、だきしめようとして立っておられるように私には見えます。
□主イエスは、大能の力により、よみがえり、父なる神の右に座しておられる
□今も主イエスは、弱く小さな私たちを応援し、とりなして下さっている