「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、
キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして
教会に与えられました。」(エペソ1:22)
神は、キリストを「かしら」として教会にお与えになりました。神はなぜそうされたのでしょう。
主イエスは、教会の方向性を決める二つの命令をされました。大宣教命令と互いに愛し合いなさいという命令です。
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)
教会は福音を伝えるためにこの地上に置かれています。宣教をしない教会は、塩けを無くした塩です。
コロナの状況下で、人と会えない時代に私たちは生きていますが、個人としても、教会としても、福音を伝える難しさを感じています。でも、教会のみんなの気持ちは同じで、近くの人にも世界の人にも福音を伝えたいと私たちは願っています。
福音宣教という使命は、教会にはっきりした方向性を与えます。困難に直面しても、迫害されても、禁止されても、福音は語るべきものです。
ところが、第二の命令は、目的達成とは対極の命令なのです。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
目的達成ではなく、身近なクリスチャンを愛していくこと自体に意味があるのです。教会には、温かさ、ゆるし、慰め、共感があります。弱さのある人、傷を受けた人、貧しい人、病の人、孤独な人たちも、教会において光を見出すのです。
次に、教会の歴史に目をとめましょう。
主イエスが十字架にかかられて50日目、ペンテコステの日に聖霊が下り、十二弟子は他国の言葉で福音を語りました。その結果、3000人が弟子に加えられ、目に見える形で教会が誕生しました。教会の使命である福音宣教が力強く行われました。その後は、救われた人々が互いに愛し合いました。
「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)
信者になった3000人は分かれて家庭に集まり、愛し合う群れを作りました。その結果、さらに大勢の人が救われていきました。
私たちは体験的に知っているのですが、伝道活動を休みなく続けると疲れが生じて、お互いの交わりがぎすぎすします。一方で、教会の交わりが仲良しクラブのようになり新しい人を拒絶するようになっては本末転倒です。福音宣教という動的な活動と、互いを愛し合うという静かな交わりの両立は極めて難しいのです。
そこでエペソ1章の今日の聖句に戻りましょう。
主イエスは十字架で死なれ、よみがえられ、神の右に座し、罪の贖いを完結されましたが、父なる神は主イエスにもう一つの役割をお与えになりました。教会のかしらにされたのです。教会が、福音宣教と愛の交わりの両立のために、有能な「かしら」が必要だったからです。
あらゆる支配や権力よりも力があり、すべてのものを足の下に従わせることができる方こそが教会のかしらとして適任です。
「このかしらがもとになって、からだ全体は節々で筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。」(コロサイ2:19)
主イエスがかしらとなり、私たち教会がその体になります。それによって主イエスのいのちが私たちに行巡るのです。主イエスのいのちが私たちに流れるので、教会は実を結ぶことができるのです。(ヨハネ15:5)教会の存在目的である福音宣教からそれないように方向づけながら、温かい思いやりと主イエスのいのちを体全体に行きわたらせてくださる「かしら」がイエスさまなのです。
教会堂の塔の上にかかげられた十字架を見上げて下さい。私たちの教会のかしらは主イエス・キリストです。この方にしっかりとどまり続けて福音宣教と愛の交わりを行っていきましょう。
□教会のかしらは、イエスさま
□主イエスにつながり、福音宣教と互いの愛を心がけよう