教会はキリストのからだであり、
すべてのものをすべてのもので満たす方が
満ちておられるところです。(エペソ1:23)
1、教会は、彼のからだ
イースターの朝、主イエスの遺体は墓になかったとルカは書きました。
「主イエスのからだは見当たらなかった」(ルカ24:3)
英語聖書は、they did not find the bodyと訳しています。主イエスのボディーはそこに無かったのです。
このルカの記述と比べながら今日のエペソの聖句を良く見ると、ああそうだったのかと気がつきます。
主イエスの遺体はない。けれども、主イエスは今も生きておられる。主イエスは全世界の教会を通してご自分のみこころを実現しておられる。
教会が主イエスのからだであるとはそういう意味なのです。
パウロがダマスコのクリスチャンを迫害するために進んでいると、まばゆい光に照らされ「なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:5)と復活の主イエスに言われてパウロはひどく困惑しました。
クリスチャンは主イエスなのか?
そうです、教会はキリストのからだです。イエスさまの遺体も、お姿も地上にありませんが、たしかにクリスチャン達がエルサレムとその近郊でイエスさまの働きをしていました。名もなきクリスチャンが小さなキリストとなって迫害もいとわずに活動をしていたのです。
教会の存在目的は、キリストのみこころをこの地上で行うことです。
教会を構成する私たちも主イエスの願うことをこの世で実現していきましょう。
2、教会には、彼が満ちている
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(ヨハネ1:16)
福音書を書いたヨハネは、イエスさまが満ち満ちた方だと述べました。あらゆる良きものをあふれるほど持たれ、多くの人を潤すことができるお方です。
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)
パウロも、主イエスが満ち満ちた方だと説明しています。そして、教会には主イエスが満ちていると説明しました。
夜店で売っている水ふうせんは、どの部分にも同じ水圧がかかっています。学校で習ったパスカルの法則が働いています。
満ち満ちた方イエスが教会の中で満ち満ちているというのは、まるでパスカルの法則の教会版なのです。主イエスは、私たちの教会の中に、その満ち満ちた良きものを溢れさせて下さいます。教会を構成するすべての人に、恵みと愛と助けと力を等しく働かせておられます。その力をもらえない人は一人もいないのです。
主よ、世界の教会を祝福し、あなたのみむねを行えるように助けて下さい。
私たちの弱さや乏しさや不十分さや臆病や知恵の足らなさなどすべての欠けを補い、あなたが満ち満ちた状態にして下さい。
□教会は、キリストの思いを実現する彼のからだ
□個人として、主イエスのみこころを選んで行こう
□すべてを満たすお方に満たして頂いて進もう