鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
詩篇42篇の基本テーマは霊的スランプからの回復です。前半の1~5節では霊の渇き、後半は、試練の厳しさでおぼれそうな様子が述べられています。
1節で、鹿が乾いた川底に下りても水を見つけられず苦しみあえぐ姿が語られています。神を求めても満たされない信仰者の霊の渇きがその鹿の姿に重ねられています。
周囲の人々は「おまえの神はどこにいるのか」とあざけりの言葉を投げかけてくるので、昼も夜も涙にくれていたのです。
「私は自分のうちで思い起こし」(4節)とありますが、そうした悲しみにつぶされないために、霊的に祝福された時の心のアルバムを見返すことは役に立ちます。
主にある仲間たちと心からの賛美をしながらエルサレムの神殿に上った時を思い出しました。過去は確かに貴重な体験であり、その時の霊的喜びは真実のものだったのです。
自分の心に語り掛ける詩編42篇独特の印象的な言葉が5節に登場します。同じ内容は11節でも繰り返され、とても深く心に刻まれるフレーズになっています。
わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5節)
6~11節では枯れた川でなくて滝と滝つぼの様子が描かれています。パレスチナ北部にある最高峰ヘルモン山(標高2800m)はヨルダン川の水源となっていました。ミツアルの山とはヘルモン山の一部だったのでしょう。大きな滝が激しく落ちて水しぶきを上げる様子は大きな試練によって翻弄される様子を象徴しています。エルサレムから遠く離れた地にあって、とても大きな悩みに直面していたのでしょう。
「おまえの神はどこにいるのか」(10節)というあざけりの声は耳から離れません。神に忘れられたと感じるほど厳しい試練の中にいました。その圧力に屈しないためにできることがあります。恵みを数え、賛美し、祈ることです。
昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。(8節)
詩編42篇は、うなだれて落ち込んでいる自分を、もう一人の自分が励ます詩編です。
弱く、倒れ果てている自分を客観視し、その状態を受け入れながらも、神を見上げようと自分を励ましています。
無理やり自分を元気づけても返って疲れます。義務感で外見を装っても長続きしません。神を待ち望む心が大切なのです。
多くの信仰者は生涯に一度や二度は深刻な霊的うえ渇きを経験し、魂の暗黒を通過します。振り返ると、その危機的状況で神の深い愛に気づき、生ける神との絆を深めることがあるのです。
わがたましいよ、なぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。(11節)
□うなだれた自分をそのまま受け入れましょう。
□過去の恵みを思い起こす事と賛美や祈りを続けましょう。
□神を待ち望みましょう。