「自分の剣によって彼らは地を得たのではなく自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手あなたの御腕あなたの御顔の光がそうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(詩編44:3)
44篇を要約します。
かつてイスラエル民族は、神によって約束の地に「植えられました」。神の右の手、神の御腕、神ご自身が私たちの先祖に住む土地を与えて下さいました。それは過去の思い出で終わらず今も勝利は神から与えられるものです。自分たちの腕や剣や弓で勝利するのではありません。だから私たちはいつも神を誇ります。(1~8節)
そう述べたのは、王国が繁栄していた時ではありません。敵に敗北し、略奪され、人々が散り散りになり、近隣諸国の物笑いの種になった時でした。(9~16節)
「これらすべてが私たちを襲いました。」(17節)そんな悲惨な状況になっても、私たちは神を忘れず、他の神々に心変わりせず、たじろぐことなく、神の約束を守り、神の道から離れませんでした。(17~22節)
神よ起きて下さい、目を覚まして下さい。私たちは倒れています。助けてください。(23~26節)
ユダ王国末期には神から離れ偶像を拝む時代になったので、この詩編の時代背景はヨシャファテ王かヒゼキヤ王の時代かもしれませんが特定は困難です。
敵に打ち破られ、国家的危機を迎え、悲惨な状況に陥った時、人は自分の苦悩にだけ焦点を当てて私だけがなぜ苦しむのかと嘆くものです。ところが詩編44篇では「私たち」に焦点が当てられ、新改訳聖書においては「私たち」が25回も使われています。詩編の中で「私たち」が最も多く用いられています。
「これらすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れずあなたの契約を無にしませんでした。私たちの心はたじろがず私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。」(17~18節)
戦禍に苦しむ中で「私たち」として神の道を選び取れたのはなぜでしょう。信仰に堅く立つ者が身近な人を励ましたのだと思われます。神の約束を確認したり、賛美したり、互いに祈り合う中で「私たち」皆が信仰を捨てずに歩めたのでしょう。
国家的危機と苦難と辱めの中にあっても主への信頼を保つ詩編44篇はパウロの目に留まりました。神へのささげ物にされる羊が囲い場で死を覚悟する様子と人々の様子を重ねている22節にパウロは注目しました。健気な信仰者たちを支えているのは神の愛なのだとパウロは理解しました。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれてあります。『あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。』しかし、これらすべてのことにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(ローマ8:35~37)
困難に直面した時でも、私たちは互いに励まし合うことにより主の道を歩き続けることができます。私たちの剣や腕ではなく神の右の手が勝利をもたらすので、神への信頼が肝要です。私たちは神と神の愛によって圧倒的な勝利者になれるのです。
□勝利は神の御腕がもたらす
□励まし合う中で勝利者になる
□神の愛が下を支えている