2024年1月1日月曜日

詩編48篇

  「高嶺のうるわしさは、全地の喜び」(詩編48:2)

 詩編48篇は、エルサレムがテーマの詩編です。
 神は大いなる方と語り始めますが、エルサレムは素晴らしいと続き、神とエルサレムが混然一体となっていきます。こうした描き方によって、エルサレムが何かに重なってきます。

1~8節が最初の段落です。まず神の偉大さをたたえています。その後で、エルサレムの町としての強さが言及されています。「北の端なるシオンの山は大王の都」(2節)エルサレムは東、南、西の三方向を谷に囲まれています。ソロモン王が都の北側に神殿を建設したため、こうした表現がなされたのでしょう。

外国の王たちが戦うためにやって来ても、エルサレムを見ただけで震えおののき、タルシシュ(スペイン)の無敵艦隊がやって来ても神が送る東風によって撃沈されると書いてあります。神は万軍の主であり、エルサレムは力ある神によって守られているのです。

 9~11節では、神の愛や神の正しさに目を向けました。「神よ、私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを思いました。」(9節)エルサレム神殿で心を静めてみると、神の力だけでなく、神の愛、神の正義に目が向きます。神がシオンの山に神の恵みを注がれているので、人々に喜びと楽しみが生まれます。シオンはエルサレムの別名です。

 12~14節では、現在の神の守りに目を向けながら、神の守りが永遠に変わらないことを確認しています。
 「シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。」(12節)と言われています。エルサレムは美しく、かつ、城壁と櫓で囲まれた堅固で安全な町なのです。

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。」(14節)

 神がエルサレムを永遠の住処として下さったように、主は私たちの内に住んで下さり、私たちの死の苦しみの瞬間も、死の先も、主は私たちと共にいて下さいます。何という大きな慰めでしょうか。

 エルサレムは、交通の要衝ではなく、貿易の中継地でもなく、大きな川も肥沃な大地の中にもありません。パレスチナの中央山地の一部で、死海の西側、標高750mほどの山の頂上で、ギホンの泉が唯一の水源でした。

 歴史的に言うと、ダビデがエルサレムを首都として選び、町を建設しました。「ダビデはこの要害に住み、これを『ダビデの町』と呼んだ。ダビデはその周りに城壁を、ミロから一周するまで築いた。」(第二サムエル5:9)

 ところが主がソロモンに語られた内容を見ると、エルサレムを選んだのは主であることが分かります。「ただ、エルサレムを選んでそこにわたしの名を置き、ダビデを選んでわたしの民イスラエルを立てた。」(第二歴代誌6:6)

 首都としての機能や力も無い町を主がご自分の町として選んで下さったのです。取るに足らない私たちを主が選んで救って下さったことと重なって見えます。(ヨハネ15:16)私たちが主イエスを選んだと思っていても、事実は逆で私たちが選ばれていました。

 エルサレムは「神の都」(1節)と呼ばれ、「大王の都」(2節)として神が住んで下さり、「万軍の主の都」(8節)と言われるように神の鉄壁の守りのある町になりました。

 詩編48篇では、神の偉大さが語られ、エルサレムの麗しさが述べられ、神の守りに触れています。エルサレムの姿は、私でありあなたであることに気がついてきます。神がエルサレムを選び、神がそこに住んで下さり、神が守って永遠に導いて下さるのです。

 一年間の主の守りを感謝し、主をたたえましょう。

 「主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。」(詩編121:5)

 □神は大いなる方で外的から守る方。
 □神は私たちを選び、私たちの中に住んで下さる方。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...