2024年6月26日水曜日

ヨハネ4:27~42 畑を見よ  

 十二弟子が町から帰って来たのをきっかけに、サマリアの女は急いで町に戻りました。苦労して井戸から汲んだ水が入った水がめをその場に忘れたままで行ってしまいました。それほど喜んでいたのです。(28節)

 「先生、食事をしてください」(31節)と弟子たちが言ってくると、主イエスはもうお腹はいっぱいだという趣旨のことを言われました。サマリアの女との交流が主の心に喜びをもたらしたのです。彼女は、生ける水を知り、自分の過去を正直に見つめ、礼拝の心を持ち、主イエスをメシアとして信じたのです。

イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」(ヨハネ4:34)

 人というものは、疲れたとしても、損をしても、非難されたとしても、人として正しい事を行えたときは心が満たされるものです。主イエスは弟子たちに言われました。父なる神のみこころを悟り、それを行えた時は、おいしい食物を食べた時に良く似ていると。

 

あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(35節)

 普通、麦の種を蒔いて刈り取りをするまで5ヶ月前後かかります。主イエスは、人間の心を畑にたとえた場合は、それとは違うと言われました。福音の種がまかれてすぐでも、人生を変えるほどの変化は可能なのです。

 旧約聖書でも、種をまいてすぐ収穫するという様子が預言されています。「耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種を播く者に追いつく」(アモス9:13)それは、主イエスが言われた言葉と符合するもので、人々の心で起こる短期間でダイナミックな変化を予告しています。

サマリアの女の回心の出来事は、主イエスの言葉が真実であることの証明になります。種を蒔いたらすぐに収穫できたのです。さらに、彼女の話によって多くのサマリア人が信仰に導かれました。彼女の過去を知っていた人々は、彼女の生まれ変わった姿を見て驚き、自分たちも主イエスから直接話を聞きたいと、大勢の人がやって来て、ついに2日間にわたって主イエスの話を聞き(40節)、質問をし、その結果さらに多くの人が信仰に導かれました。(41〜42節)まさに畑は色づいていたのです。

 

さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。」(39節)

職場で家庭で教会で、父なる神のみこころを求め、実行してみましょう。

主イエスは畑は色づいていると言われました。あなたの周囲の人々の心は、準備が整い、福音の種を受け入れる素地ができています。


 □父の心を実行すると心が温かくなる
 □畑は色づいているので、福音を語りましょう

2024年6月16日日曜日

ヨハネ4:16~26 礼拝者は 

 今日の箇所は、主イエスとサマリアの女の会話の続編です。主イエスはサマリアの女と3つのテーマについて語り合っています。①彼女の人生、②礼拝場所、③メシアについて。

 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16節)

 これは、女性が生ける水が欲しいと述べたのを受け、主イエスが語り掛けた言葉でした。自分の今までの人生を正直に見つめ直すことが、生ける水を手に入れるために必要な道筋なのです。

 「私には夫がいません」(17節)と彼女は答えました。見ず知らずの人に自分のプライバシーを言う必要はないし、はぐらかすのが自然な成り行きでしょう。けれども、彼女は主イエスとの会話を通して、心が変えられていたので正直に答えたのです。

「あなたは本当のことを言いました。」(18節)主イエスは、彼女の物言いをほめました。5回結婚して5回離婚し、今は正式な結婚をせずに同棲状態だったので、世間は彼女の生活を責めるはずです。主イエスはむしろ、彼女の心の姿勢を評価してくれました。女性はどんなに慰められたことでしょう。彼女は、自分の過去の傷、失敗、罪、そして現在のすさんだ生活を認めました。生ける水を得るためには、生きて来た道を振り返り、悔い改めが必要なのです。

 19~24節のテーマは礼拝です。サマリアの女は神の前に出て悔い改め、礼拝をささげたいと思ったのでしょう。ですが、礼拝場所が二つあったので、彼女は困惑していました。主イエスはこう言われました。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」(21節)

サマリア人が大切にしていたゲリジム山でも、ユダヤ人が大切にしているエルサレムでもなく、世界のどこでも礼拝できる。大事な事は、「どこで」ではなく、「どのように」という心の姿勢なのだ、と言われたのです。

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。」(23節)

「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(24節)

伝統と場所を頼りに礼拝をすると、とても形式的な礼拝になりやすいのです。エルサレムでも良いし、ゲリジム山でも良いし、世界のどこでも良い、しきたりと場所ではなく、御霊と真理による礼拝が父なる神の求める礼拝なのです。

ヨハネ7:38~39によると、生ける水とは御霊のことだと書かれています。また、ヨハネ14:17によると、約束の助け主とは「真理の御霊」だと言われています。御霊は、霊そのものであり、私たちの心に宿って下さる人格を持たれた神です。そして、私たちに真理を教え、真理に導いて下さいます。

サマリアの女性にとってみれば、主イエスが彼女を差別しなかったという中に神の愛が見えてきます。また、彼女の罪が赦される道が分かり、神の赦しの深さも見えてきます。このような事が彼女にとっての真理になります。神の真理を土台にした礼拝へと聖霊が導いて下さるのです。神の愛を知り、神の赦しを知り、それを土台に神をたたえるという一連の心の流れが礼拝を生き生きしたものへと高めてくれます。 

 彼女の人生をすべて知っていて、しかも彼女を受け入れ、礼拝の本質を教えて下さる目の前にいる方は、メシアなのではないかという思いが心にやって来たので、遠慮がちに救い主の話を取り上げました。すると主イエスは躊躇なく、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(26節)とご自分の事を明かされました。

 □人生を見直し、悔い改め、生ける水を頂こう。
 □聖霊はあなたに必要な真理を明らかにして下さる。

 □父なる神を心から礼拝しよう。

2024年6月9日日曜日

ヨハネ4:1~15 サマリアの女

イエスさまと弟子たちは南部から北部へ移動中でサマリア地方を通過していました。弟子たちは町に食料を買いに行き、イエスさま一人が井戸のそばで座っておられました。時刻は正午、とても暑い時間帯でした。そこに女性が水を汲みに来たので、主イエスは水を飲ませて下さいと言われました。(ヨハネ4:7)普通、女たちが水を汲みに来るのは朝か夕方ですから、この時刻に井戸に来た彼女には特別な事情があったと思われます。

そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
(ヨハネ4:9)

 ユダヤ人はサマリア人を見下げていたので、会話もしませんでした。ですから、この女性は主イエスの差別しない言動に驚いたのです。

ここでニコデモとサマリアの女を比べてみましょう。ニコデモは学問があり金持ちで社会的地位がありましたが、女には何もありません。ニコデモは主イエスの教えと活動を良く知っていて尊敬の念を持ちながら教えを乞うつもりで夜に訪問しました。サマリアの女は主イエスの事を一切知らず、日の照り付ける昼間に主イエスと偶然に出会いました。

さてあなたは、二人のうちどちらに似ていますか。多くの人がサマリアの女に似ています。私たちは、主イエスに関心を持たず、魂の問題を意識せずに過ごしています。そして、表面的な幸せと楽な暮らしを求めています。何らかの問題を抱えた時は、他人との接触を避け引きこもって暮らします。

 主イエスは自然に振る舞い、サマリアの女の汲む水を飲むつもりでした。彼女は主イエスの言動のすべてに驚きました。

 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13~14)

主イエスの話を聞いて、毎日井戸の水を汲みに来なくてよいなら、その水がほしいと女性は言いました。(15節)まだ、彼女は「生ける水」が何かを理解していませんでした。ただし、主イエスとの会話によって、サマリアの女の心が目覚め始めているのは明らかです。

「生ける水」とは、普通に理解すれば、それは溜まり水でなく、流水だということです。誰も、水たまりに残った水など飲みません。泉から湧き上がる水を見つけたら安心して飲みます。生ける水だからです。

もちろん、主イエスがサマリアの女性に与えると言われた水は、泉から汲んだきれいな飲料水という意味ではありません。

主イエスは決して渇くことがない水を与えて下さいます。その人の内で泉となる水です。永遠の命を保証する水です。神からの賜物としての水です。人の心の渇きを癒し、喜びと平安を与える活水です。

 サマリアの女の心はカラカラに渇いていました。それが自覚できないほど心を蝕み、生きる希望を削ぎ、生活の疲れを引き起こしていました。彼女に一番必要なものが、生ける水だったのです。

 主イエスはこのような状態にいたサマリアの女に声をかけ、優しさを示し、自然な流れで魂の問題へと導いて下さいました。主イエスは、今も、同じように私たちに接してくれます。そして、主イエスを心に迎えた人にはリビングウォーターを注いて下さいます。主イエスを信じた人の心には泉が生まれるのです。

 □私たちはサマリアの女に似ていた
 □主イエスの方から声をかけて下さった
 □今、私の中に生ける水がある

2024年6月2日日曜日

ヨハネ3:22~36 あの方は盛んに 

 バプテスマのヨハネは今まで通りヨルダン川でバプテスマを授けていました。一方、主イエスのグループもその近くでバプテスマを授けていました。ただし、人々は主イエスの方に流れていました。それを見て、バプテスマのヨハネの弟子たちは嫉妬して、「皆があの方のほうに行ってしまいます」(ヨハネ3:26)と述べました。 

 「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」(27節)

 自分が何かを持っているなら、それは神の許しによる。受ける時もあるし、失う時もある。神は造り主、神は最善のみこころをお持ちで、私は造られた者、神に用いられる時もあり、働きから去る時も来る。ヨハネは謙遜で柔らかな心を持っていました。あなたはどうですか。

 「その方の前に遣わされたのです」(28節) 

 柔軟で謙遜であるだけでなく、バプテスマのヨハネにはブレない堅い核のようなものを持っていました。神から受けた使命に忠実です。救い主のために道を整える声として活動しました。困難があってもやり遂げ、たとえ国主ヘロデ・アンティパスの罪であっても厳しく指摘しました。(それゆえにヨハネは捕らえられ斬首されます)
 あなたが今、主から与えられている使命は何ですか。それに忠実に歩みましょう。

 「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(30節)

 親友の結婚式に出席してその親友と一緒に喜ぶ男性が自分だとバプテスマのヨハネは語り、主イエスの活躍を心から喜んでいます。実にさわやかな姿勢です。主イエスがどんどん栄えて、栄光があらわれることを熱望しています。

 自分は消えて主イエスが表れ出てほしい。これがキリスト者の根源的な願いです。

 ヨハネの福音書では、バプテスマの逮捕、獄中での不安、突然の処刑については何も記述がありません。おそらく、この福音書の著者であり十二弟子のヨハネは、最初バプテスマのヨハネの弟子(ヨハネ1:35、40)であり、多くの事を教えてくれた恩師に関する悲しく否定的な事柄を書きたくなかったのでしょう。22~30節は、著者ヨハネの優れた点が石板に刻まれたような記念碑的な内容になっています。

 31~34節はバプテスマのヨハネの発言か使徒ヨハネの解説か分かりにくいのは、二人の考え方が良く似ていた証拠かもしれません。

 「天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」(31節) 
 「神が遣わした方は、神のことばを語られる。」(34節)

 35~36節は16~21節の内容の再説明になっています。御子を信じる者は永遠の命を持ち、御子を信じない者はいのちを持たず、神の怒りがとどまっていると述べています。バプテスマのヨハネが人々に紹介した主イエスこそ、御父の一人子であり、私たちを救うために命を投げ出して下さった方です。

 バプテスマのヨハネは最初から最後まで、イエスさまを名前で呼んだことがありませんし、御子と呼んだこともありません。その代わり、「その方」(1:27)、「世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)、「この方」(1:34)、「あの方」(3:30)と呼び、最大限の尊敬と感謝を表しています。あの方が盛んになり私は衰えるべきだと考えていた証拠かもしれません。

 □謙遜で柔らかい心でいましょう
 □今持っているものは天から与えられたもの

 □主イエスの栄光が表れますように

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...