2024年6月9日日曜日

ヨハネ4:1~15 サマリアの女

イエスさまと弟子たちは南部から北部へ移動中でサマリア地方を通過していました。弟子たちは町に食料を買いに行き、イエスさま一人が井戸のそばで座っておられました。時刻は正午、とても暑い時間帯でした。そこに女性が水を汲みに来たので、主イエスは水を飲ませて下さいと言われました。(ヨハネ4:7)普通、女たちが水を汲みに来るのは朝か夕方ですから、この時刻に井戸に来た彼女には特別な事情があったと思われます。

そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
(ヨハネ4:9)

 ユダヤ人はサマリア人を見下げていたので、会話もしませんでした。ですから、この女性は主イエスの差別しない言動に驚いたのです。

ここでニコデモとサマリアの女を比べてみましょう。ニコデモは学問があり金持ちで社会的地位がありましたが、女には何もありません。ニコデモは主イエスの教えと活動を良く知っていて尊敬の念を持ちながら教えを乞うつもりで夜に訪問しました。サマリアの女は主イエスの事を一切知らず、日の照り付ける昼間に主イエスと偶然に出会いました。

さてあなたは、二人のうちどちらに似ていますか。多くの人がサマリアの女に似ています。私たちは、主イエスに関心を持たず、魂の問題を意識せずに過ごしています。そして、表面的な幸せと楽な暮らしを求めています。何らかの問題を抱えた時は、他人との接触を避け引きこもって暮らします。

 主イエスは自然に振る舞い、サマリアの女の汲む水を飲むつもりでした。彼女は主イエスの言動のすべてに驚きました。

 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13~14)

主イエスの話を聞いて、毎日井戸の水を汲みに来なくてよいなら、その水がほしいと女性は言いました。(15節)まだ、彼女は「生ける水」が何かを理解していませんでした。ただし、主イエスとの会話によって、サマリアの女の心が目覚め始めているのは明らかです。

「生ける水」とは、普通に理解すれば、それは溜まり水でなく、流水だということです。誰も、水たまりに残った水など飲みません。泉から湧き上がる水を見つけたら安心して飲みます。生ける水だからです。

もちろん、主イエスがサマリアの女性に与えると言われた水は、泉から汲んだきれいな飲料水という意味ではありません。

主イエスは決して渇くことがない水を与えて下さいます。その人の内で泉となる水です。永遠の命を保証する水です。神からの賜物としての水です。人の心の渇きを癒し、喜びと平安を与える活水です。

 サマリアの女の心はカラカラに渇いていました。それが自覚できないほど心を蝕み、生きる希望を削ぎ、生活の疲れを引き起こしていました。彼女に一番必要なものが、生ける水だったのです。

 主イエスはこのような状態にいたサマリアの女に声をかけ、優しさを示し、自然な流れで魂の問題へと導いて下さいました。主イエスは、今も、同じように私たちに接してくれます。そして、主イエスを心に迎えた人にはリビングウォーターを注いて下さいます。主イエスを信じた人の心には泉が生まれるのです。

 □私たちはサマリアの女に似ていた
 □主イエスの方から声をかけて下さった
 □今、私の中に生ける水がある

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