2024年7月28日日曜日

ヨハネ5:19~29 父と子  

  今日の箇所の重要性に気づいたのはヨハネだけです。

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。(ヨハネ5:19)

英語訳聖書でThe Son can do nothing by himselfと訳しています。主イエスは、自分一人では何もできないと述べました。

ただし父なる神と共にいるならどんな事でもできるのです。主イエスの活動の秘訣はここにあります。主イエスの持っておられる強さ、知恵、革新性、優しさ、力はことごとく父なる神から来ているのだとヨハネは聞き取ったのです。

◎以下の箇所は、父と子の緊密性を教えてくれます。

・父がしておられることを子は注意深く見ている。(19節)
・父がすることを子に示しておられる。(20節)
・子は父なる神に特別に愛されている。(20節)
・死人をよみがえらす力を父は子に与えられた。(21節)(25節)(28節)
・子はすべてのさばきを父から委ねられた。(22節)(27節)(29節)
・子は父と同等に敬われるべき存在。(23節)

主イエスは、宮きよめを行って商売人を神殿の庭から追い出し祈りの家にされました。それは、子が父の心を悟られたから実行されたのです。また、主イエスはあえて安息日に38年間病気で歩けない人を癒されました。それは、安息日が違反を取り締まる息苦しい日になっていたのを改め、父のみこころに即して礼拝と喜び、解放や休息の日に戻そうとされたのです。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)

主イエスは父なる神とつながって歩んでおられたのですが、それを私たちに適応すると幹と枝の関係になるのです。つながって生きるなら実を結ぶのです。

パウロは「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)と述べましたが、それも同じ考えです。

 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)

 主イエスを信じますと告白すれば、同時に、父なる神を信じたことになります。父なる神は世界と命の創造者ですから病を癒すことができます。主イエスは、死者をよみがえらせ、永遠の命を与えることができます。
 私たち信じる者は、墓場から天の御国に移動中の引っ越しトラックに乗っているのです。

□主イエスは、父なる神と密接に行動された
□私たちも主イエスにつながって生きよう
□つながっているなら I can do all this through him.

2024年7月21日日曜日

ヨハネ5:10~18 今日は安息日

 38年間病気で寝たきりの人が歩けるようになりました。それを知ったら誰もが喜び、主をたたえることでしょう。ところが、そうなりませんでした。

そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。(ヨハネ5:10)

ユダヤ人たちは(おそらく律法学者たちでしょう)38年間病気で寝たきりの人が起きて歩いたと知って強く非難しました。安息日に仕事をした。床を取り上げて歩くことは律法違反だ。安息日の規則を破った場合、極刑になることもあり得ました。

 あなたとこのユダヤ人と共通点がありませんか。職場の新人、自分よりできる人や若い人が近くに来たとき、私たちは人の欠点を探そうとしがちですね。

 

その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。(15節)

 取り上げた床を取り上げた男はユダヤ人たちに問い詰められて動揺しました。あれは自発的な行為ではなくある人に従ったまでだと弁明しました。実際のところ男は自分を癒してくれた人が誰かを知りませんでした。(13節)男が神殿の敷地内にいた時、主イエスが彼を見つけて声をかけて下さいました。

 ところで、シロアムの池の水で癒された盲人の話がヨハネ9章にありますが、その日も安息日で類似点が多いのですが、癒された人の反応は対照的でした。癒された盲人はパリサイ人に責められ追放されたのですが、主イエスと再会した折に主イエスに対する信仰を明確に言い表しています。(ヨハネ9:35~38)

 38年間病気でいやされた男は、主イエスに感謝も言わず、信仰の表明もせず、むしろ、主イエスのことをユダヤ人たちに密告しました。主イエスは彼の危うさをご存じだったので、罪を犯すな悪いことが起きると厳しく言われたのだと思われます。(14節)

 こうして主イエスは、ユダヤ人から迫害を受けるようになりました。(16節)安息日に行われた癒しは主イエス殺害の恰好の口実になりました。

 

 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(17節)

 こうした中で主イエスは、ご自分が何者であるかを語られました。主イエスは大胆にも神を父と呼びました。そして、神とご自分を等しくされました。

 神は世界創造以来ずっと働いておられ、安息日であっても世界を守り保つ働きをされています。それと同じように主イエスも働いており、安息日であっても人を救うし、人を癒すと言われたに等しいのです。

 なぜ、主イエスは安息日に人を癒されたでしょう。それは宮きよめと同じ発想です。

 神殿の庭は商売人の喧噪で満ちていましたが、主イエスは彼らを追い出し神殿という場所を本来の祈りの家に戻されました。

 当時の安息日は、人が人を監視する日、束縛の日になっていました。主イエスは、安息日というシステムを本来の姿に戻そうとされたのです。体と心の休息の日、解放の日、礼拝の日、喜びの日であることを気づかせようとされたのです。

□あら捜しは何も良いものを生まない
□主イエスが自分の救い主であることを告白しよう

□安息日は喜びの日、賛美の日、解放の日

2024年7月15日月曜日

ヨハネ5:1~9 38年間の病気

 主イエスは再びエルサレムに戻られました。
  
神殿の外の北側にベテスダの池があり、池を囲む五角形の回廊に大勢の病人が横たわっていました。水面が波立った時に一番先に池に入れば癒されるという昔からの言い伝えがあったので病人が集まっていたのです。

そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」(ヨハネ5:5~6)

 主イエスはこの男性に三つのことをされました。見る、知る、言う。

 長期間病気で寝たきりの人です。否定的な人生観を持つ年寄りじみた男です。主イエスはあえてそんな男に目を留められました。

主イエスはあなたに対しても目を向け、あなたに関心を寄せて下さいます。そして、私たちがどんな状況で、何を考え、何を感じているかを知ろうとして下さいます。その上で、最もふさわしい言葉を語って下さいます。これこそがイエスの愛なのです。

主イエスの問いかけに対して男は予想に反した答えをしました。(7節)良くなりたいですとは答えませんでした。男の答えとはこうです。私を池に入れてくれる人がいない。他の人は冷たい。社会が悪い。

せっかく声をかけたのに、このように答える人に出会ったらあなたならどうしますか。たいていの人は、分かりました、もう何も言いません。あなたと関わって損しました。さようならとなります。でも主イエスは見捨てませんでした。だから主イエスは愛の人なのです。

ところで、あなたはこの男に似ていますか。私の人生は変えられない、どうぜ私には無理だ、そう考えていませんか。現状が嫌なくせに、ぬるま湯から出たくないと思っていませんか。

 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8節)

 この言葉に3つの励ましが込められています。
1)
起きなさい。人生は変えられるのです。
2)
床を取り上げなさい。古い生き方に戻らないと決意しなさい。
3)
歩きなさい。自分で進む方向を決めなさい。

 この男性はまず癒されました。この順番に主のあわれみが出ています。彼は、それで言われた通りしてみました。起きました。床を取り上げました。歩きました。意欲もない、希望もない、信仰もなかった男が、主イエスとの出会いで変えられたのです。

男は目の前の人物がイエスさまだと知りませんでした。(13節)ただ、普通の人ではないと気づいたので「主よ」と呼び掛けたのです。主イエスに目を留めて頂き、理解され、励まされ、男は生まれ変わったのです。

□あなたは38年間病気の人に似ていますか。
□主イエスは、今日のあなたに言われます。「良くなりたいか」

□主イエスを信頼して、立とう、床を取り上げよう、そして、歩き出そう。

2024年7月7日日曜日

ヨハネ4:43~54 役人の息子 

 イエスさまは、サマリヤから離れて北に向かい、ガリラヤのカナという町に来られました。そこに王室の役人がやって来ました。彼はガリラヤ湖畔のカペナウムの町から丘陵地帯の道を登って来ました。息子の病を癒してほしかったのです。イエスさまの噂を聞いて藁をもつかむ思いでやって来たのです。(ヨハネ4:46~47)

 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」(ヨハネ4:48)

 これは厳しい指摘です。役人は自分の目で奇跡を見るまでは主イエスを信じるつもりがないが、治してもらえたらラッキーという思惑でした。主イエスはそれを見抜いたのです。

王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」(49節)

 役人は主イエスの言葉を聞いても何も反応せず、49節にあるように、死なないうちに下って来て下さいと言うばかりでした。そこで主イエスは50節の言葉を言われました。

 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。(ヨハネ4:50)

 「治ります」という言葉は新改訳聖書の脚注にあるように直訳で「生きます」です。

 わたしがその場に行くまでしばらく時間がかかるが家についたら治してあげよう、手を置いて祈れば熱が徐々に下がり体力が回復するだろうという言い方を主イエスはされません。

 <わたしはあなたと一緒に行く必要がなくなった、あなたの息子は今、元気に生きているからだ>という趣旨で主イエスは言われたのです。

役人はこの次元の違う発言を聞いて驚き、納得し、主イエスの言葉を大切な宝のようにして持ち帰ったのです。主イエスがまるで彼の息子のベッドの横で様子を見ているようなリアリティーを感じたと思われます。役人はこの言葉で主イエスを完全に信頼したので自分一人で帰ることにしました。

 第7時(52節)というのは現在の午後1時です。カナからカペナウムは直線距離で30キロの下り坂ですから、彼が急げば夜更けには戻れたと思われますが、主イエスの言葉を信頼していたので道を急ぎませんでした。

 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。(51節)

翌日、家から報告に来たしもべと鉢合わせになりました。しもべの言葉は、主イエスが役人に言った言葉と同じ「生きます」だったので役人はその同一性に驚いたはずです。

元気になった時刻を尋ねると、主イエスが言われた時刻とぴったり同じ、昨日の午後1時でした。このようなことを経験したものですから、役人も家の者たちも主イエスを救い主として信じました。(53節)

これが主イエスのなさった第二の奇跡です。

□あなたにとっての<息子の病気>とは何でしょう。
□主イエスを信頼しましょう。
□主イエスの語られた言葉を持ち帰りましょう。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...