2024年9月15日日曜日

時を見る目

 ヨハネ7章には、主イエスが仮庵の祭りに参加した時のもやもやした空気感が描かれています。ここには大きな奇跡や病人の癒しはなく、身内による冷ややかな批判、当局による重苦しい監視の目、迫りくる殺意が宙ぶらりんのままで記録されています。その中で、主イエスはご自分の時(6節)を見極めようとされていました。

主イエスの活動の三年目の春、過ぎ越しの祭り(6:4)の頃に五千人の給食が行われました。同じ年の秋の仮庵の祭り(7:2)が今回の出来事になります。

「自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(4~5節)

主イエスの弟たちの目は開かれていなくて、エルサレムでデビューするように主イエスを無理強いしました。この翌年、使徒1:14によると、弟たちは十字架からペンテコステの間に主イエスを救い主として信じることになります。

主イエスは、願いがかなわない中途半端な気持ちや、肉親に批判される居心地の悪さを体験しておられました。

主イエスは置かれている状況を総合判断して、

「わたしの時はまだ来ていません」(7:6)

「わたしの時はまだ満ちていない」(7:8)

と結論づけました。今回の仮庵の祭りは命をささげる時ではないと判断され、時期を待つことにされました。
 私たちも時を見極める目が必要です。止める。進む。待つ。みことばに支えられ、祈りの中で主の導きを求めて時を判断しましょう。

主イエスは熟慮の結果、仮庵の祭りに参加することにしました。約1週間行われる祭りの後半、神殿で神の言葉を語られました。宗教当局の監視の目の厳しさを感じて、人々は表立って主イエスのことを話せない空気でした。(11~13節)

主イエスの教えは今回も評判(14~15節)になりました。父なる神の栄誉だけを求める姿勢(18節)が印象的でした。

 宗教指導者たちが律法から離れ人為的な枝葉ルール順守で汲々となり、結局は律法を守っていないと主イエスは批判されました。(19節)また、律法学者は安息日に割礼という仕事をしているのに、主イエスが安息日に病人を癒すことを非難している事を指摘。うわべでさばかず、本質を見るべきだ(24節)と主は言われました。

今日の出来事の半年後の春、過ぎ越しの祭り(11:55)の時に、主イエスはこう言われました。

「父よ、時が来ました」(17:1)

そして、主イエスは十字架で命をおささげになりました。

「私の時は御手の中にあります。」(詩篇31:15)


□私たちの人生は、北風、宙ぶらりん、もやもやの中
□だから私たちには主イエスの光と励ましが必要

□私の時がいつなのかを見極め、止まる、進む、待つを決めよう

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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