主イエスは五千人にパンを与えました。それは何のためだったのでしょう?
五千人の給食の翌日、大勢の人が集まり主イエスを探しました。(ヨハネ6:22)それは、前日にパンを食べておいしかったからです。食べたら満腹になり、嬉しくなり、元気が出たのです。彼らは無意識のうちに主イエスのいのちを体験していたのです。
主イエスが与えたパンは永遠のいのちの前味を体験させるためだったのです。
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。(ヨハネ6:57)
主イエスは願っていました。主イエスを信じてほしかったのです。昨日、自分の口でパンを食べたように、主イエスを信じてほしかったのです。そうすれば永遠のいのちを得ることができるからです。
私たち人間は、自分の体温を保ちつつ活動するためのエネルギー源としてアデノシン三リン酸を吸収するために植物や動物を食します。また、私たちの皮膚や筋肉や骨や血液を作るたんぱく質を構成する20種類のアミノ酸を必要としますが、そのうち9つのアミノ酸は人間の体内では作る事ができないので、植物や動物から取り入れないといけません。
私たちのいのちは、植物や動物のいのちを頂いて初めて生きることができるのです。それと同じように、私たちは主イエスのいのちを頂いて永遠のいのちを得ることができるのです。
今日の箇所では、天から下って来たパンを食べるという意味が生々しく説明されています。主イエスが与えようとしている永遠のいのちとは、イエスさまのいのちによってもたらされるものです。この説明は、十字架の予告であると現代の私たちには分かりますが、この時点ではそれは明らかになっていません。主イエスの血を飲み、肉を食べるとは、主イエスを信じることを意味し、主イエスが投げ出されたいのちをしっかりと受けるということです。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(ヨハネ6:53~54)
これを聞いて「弟子のうちの多くの者」が一気に冷めてしまいました。ついて行けない、ありえないと憤り、最終的には多くの者が離れ去りました。(66節)真の弟子というより、主イエスのファンというレベルの人たちなのでしょう。
律法には、血のついたままの肉は食べてはならないとあるので(レビ記17:14)、ユダヤ人たちは主イエスの言葉を生理的に拒否したのでしょう。
主イエスのスタンスは、来る者拒まず、去る者追わず、です。主イエスは、離れ行く人を無理に引き留めません。ユダのような裏切り者さえ除外しません。(70~71節)
ペテロも人に流されません。主イエスの教える永遠のいのちを受け止め、主イエスについて行きますと述べました。
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(68~69節)
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。(ヨハネ6:56)
五千人の給食の目的が分かりました。パンを食べて喜んだ人々に、もっとすばらしいパンがあることを教えるためでした。それは、永遠のいのちです。そのパンを食べるには主イエスの肉を食べ血を飲むことが必要でした。それによって、私たちはずっと主イエスのいのちに包まれ守られることになるのです。
□主イエスは、血を流し、肉を裂いて、ご自身のいのちを私たちに下さった
□イエスさまのいのちが、今も、ずっと、私たちの中に生きている