2024年10月20日日曜日

ヨハネ8:12~20 世の光 

イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

 

仮庵の祭りの最中、主イエスは神殿で人々に語りかけていました。その時に上記の言葉を言われました。パリサイ人たちは聞いてすぐに反発し、そう言えるだけの客観的な証拠を示すか、証人を出すようにと迫りました。パリサイ人たちとの議論が自然発生していますが、ここにも摂理的な側面があるのでしょう、主の言葉の意味とか背景が明らかにされるきっかけになっています。

 

主イエスは3つのポイントを用いて主の言葉が誇張や絵空事ではないことを説明されました。

 

第一に、主イエスは、どこから来たか、どこへ行くのかを知っている。

「わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですか。」(ヨハネ8:14)

ゴーギャンがタヒチで描いた有名な絵画があります。その絵には「我々はどこから来て、我々は何者であり、我々はどこへ行くのか」という文章が添えられ人間の本質を見つめています。人は自分を知り得ませんが、主イエスは違うのです。

 

第二に、主イエスは一人で行動せず、常に父なる神と共におられます。

「わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。」(ヨハネ8:16)

主イエスの言葉を裏付ける証人である父なる神がいつもそばにおられるのです。

 

第三に、主イエスは父なる神を深く知っている。

「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。」(ヨハネ8:19)

 私たちは父なる神を知りませんが、主イエスは父なる神を深く知っておられます。

 

 今まで主イエスは、ご自分が生ける水、あるいは、命のパンとなって、私たちの魂を渇きから救い、魂を癒し、魂を満たしてくださると言われました。


 今回は、私たちの魂だけではなく、私たちの人生、つまり日々の「歩み」について触れ、主イエスに従うなら闇の中を歩まないと約束されました。

 

私たちは人生において様々な不安を持っています。闇の中を手探りで生きているという感覚すらあります。けれども主イエスは、光となって私たちを照らして安心を与え、安全を保障して下さいました。また、私たちの道筋を照らして下さる灯火となって下さいます。ですから明日への希望まで見せて下さるのです。

「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)

 

旧約聖書の時代は神が雲の柱、火の柱となってイスラエルの人々を導かれましたが、今は、主イエスご自身が光となって私たちと共に歩いて下さるのです。

 

□主イエスは世の光であり、私の光です

□主イエスについて行けば安心で、闇の中を歩まない

2024年10月13日日曜日

ヨハネ8:1~11 石を投げよ

  ヨハネは今日の箇所を記録していません。それは写本の証拠と教父の文章から明白です。それで、どの聖書においても括弧が付けられ、欄外にその説明が添えられています。
 姦淫の罪を犯した女性が悔い改めて教会の交わりに加えられたとしたら、彼女のプライバシーを配慮して口伝として残され後代に文章にまとめられたものかもしれません。

彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。(ヨハネ8:6)

申命記22:22によると、夫のある女が他の男性と関係を持ち、姦淫の罪を犯した場合は二人とも死刑とされています。律法学者らは、姦淫の現場から女だけを連れて来て主イエスに処置を尋ねましたが、悪意と作為を感じます。

もし主イエスが彼女の罪を赦せば、律法に逆らったことになります。彼女の処刑を命じれば、愛のない人物、人を救えない救い主とのレッテルを張られます。完璧な罠でした。

彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。(ヨハネ8:6)

律法学者たちの攻撃を受けて主イエスは黙っておられます。地面に何かを書くほど長い時間がたっています。

 主イエスの沈黙。
 この沈黙にはどんな意味があったのでしょう。
 その場にいたすべての人が自分自身を振り返るためです。

律法学者らは、実は彼らの生き方が裁かれていたことを知らず、自分達が主イエスをコーナーに追い詰めたと勝ち誇ったことでしょう。女性は、姦淫の罪が事実なので反論できず、死の恐怖に震え、自分のした事を後悔していたことでしょう。集まった群衆は、この事件を他人事とし興味本位で推移を見守ったことでしょう。

しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)

律法学者たちは一気に劣勢に陥りました。申命記17:6~7によると、石打の刑にする場合は二人以上の証人が必要で、最初に石を投げるのはその証人たちというルールがありました。律法学者たちは証人ではなかったようです。また、自分が罪ある人間だと分かっていました。誰も石を投げられません。そして去って行きました。

彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11節)


 主イエスは沈黙しておられましたが、周囲の人に多くの事を考えさせました。主イエスが今日、沈黙しておられるなら、あなたに何を気づかせようとしているのでしょう。

今日の出来事の中に、主イエスの機転と優しさが際立っています。

□罪を犯して窮地に陥った女性でさえ、主イエスは救出して下さった
□主イエスの沈黙は私たちに何かを気づかせてくれる

□私たちは人を責める資格がない、むしろ赦そう

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...