2024年10月13日日曜日

ヨハネ8:1~11 石を投げよ

  ヨハネは今日の箇所を記録していません。それは写本の証拠と教父の文章から明白です。それで、どの聖書においても括弧が付けられ、欄外にその説明が添えられています。
 姦淫の罪を犯した女性が悔い改めて教会の交わりに加えられたとしたら、彼女のプライバシーを配慮して口伝として残され後代に文章にまとめられたものかもしれません。

彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。(ヨハネ8:6)

申命記22:22によると、夫のある女が他の男性と関係を持ち、姦淫の罪を犯した場合は二人とも死刑とされています。律法学者らは、姦淫の現場から女だけを連れて来て主イエスに処置を尋ねましたが、悪意と作為を感じます。

もし主イエスが彼女の罪を赦せば、律法に逆らったことになります。彼女の処刑を命じれば、愛のない人物、人を救えない救い主とのレッテルを張られます。完璧な罠でした。

彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。(ヨハネ8:6)

律法学者たちの攻撃を受けて主イエスは黙っておられます。地面に何かを書くほど長い時間がたっています。

 主イエスの沈黙。
 この沈黙にはどんな意味があったのでしょう。
 その場にいたすべての人が自分自身を振り返るためです。

律法学者らは、実は彼らの生き方が裁かれていたことを知らず、自分達が主イエスをコーナーに追い詰めたと勝ち誇ったことでしょう。女性は、姦淫の罪が事実なので反論できず、死の恐怖に震え、自分のした事を後悔していたことでしょう。集まった群衆は、この事件を他人事とし興味本位で推移を見守ったことでしょう。

しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)

律法学者たちは一気に劣勢に陥りました。申命記17:6~7によると、石打の刑にする場合は二人以上の証人が必要で、最初に石を投げるのはその証人たちというルールがありました。律法学者たちは証人ではなかったようです。また、自分が罪ある人間だと分かっていました。誰も石を投げられません。そして去って行きました。

彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11節)


 主イエスは沈黙しておられましたが、周囲の人に多くの事を考えさせました。主イエスが今日、沈黙しておられるなら、あなたに何を気づかせようとしているのでしょう。

今日の出来事の中に、主イエスの機転と優しさが際立っています。

□罪を犯して窮地に陥った女性でさえ、主イエスは救出して下さった
□主イエスの沈黙は私たちに何かを気づかせてくれる

□私たちは人を責める資格がない、むしろ赦そう

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