イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)
仮庵の祭りの最中、主イエスは神殿で人々に語りかけていました。その時に上記の言葉を言われました。パリサイ人たちは聞いてすぐに反発し、そう言えるだけの客観的な証拠を示すか、証人を出すようにと迫りました。パリサイ人たちとの議論が自然発生していますが、ここにも摂理的な側面があるのでしょう、主の言葉の意味とか背景が明らかにされるきっかけになっています。
主イエスは3つのポイントを用いて主の言葉が誇張や絵空事ではないことを説明されました。
第一に、主イエスは、どこから来たか、どこへ行くのかを知っている。
「わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですか。」(ヨハネ8:14)
ゴーギャンがタヒチで描いた有名な絵画があります。その絵には「我々はどこから来て、我々は何者であり、我々はどこへ行くのか」という文章が添えられ人間の本質を見つめています。人は自分を知り得ませんが、主イエスは違うのです。
第二に、主イエスは一人で行動せず、常に父なる神と共におられます。
「わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。」(ヨハネ8:16)
主イエスの言葉を裏付ける証人である父なる神がいつもそばにおられるのです。
第三に、主イエスは父なる神を深く知っている。
「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。」(ヨハネ8:19)
私たちは父なる神を知りませんが、主イエスは父なる神を深く知っておられます。
今まで主イエスは、ご自分が生ける水、あるいは、命のパンとなって、私たちの魂を渇きから救い、魂を癒し、魂を満たしてくださると言われました。
今回は、私たちの魂だけではなく、私たちの人生、つまり日々の「歩み」について触れ、主イエスに従うなら闇の中を歩まないと約束されました。
私たちは人生において様々な不安を持っています。闇の中を手探りで生きているという感覚すらあります。けれども主イエスは、光となって私たちを照らして安心を与え、安全を保障して下さいました。また、私たちの道筋を照らして下さる灯火となって下さいます。ですから明日への希望まで見せて下さるのです。
「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)
旧約聖書の時代は神が雲の柱、火の柱となってイスラエルの人々を導かれましたが、今は、主イエスご自身が光となって私たちと共に歩いて下さるのです。
□主イエスは世の光であり、私の光です
□主イエスについて行けば安心で、闇の中を歩まない