2024年11月17日日曜日

ヨハネ8:48~59 死を見ることがない

 7章から8章にかけて、仮庵の祭りに集まったユダヤ人と主イエスは神殿において長い議論をされていましたが、今回で終了です。

 ユダヤ人たちはイエスさまの言葉に反発してついに人格攻撃を始め、イエスが悪霊につかれていると悪口を言い出しました。

主イエスはそれをきっぱりと否定。悪霊とではなく、父なる神と深い関わりを持っていると述べました。主イエスはご自身を批判するユダヤ人にさえ、死に打ち勝つ道があることを明らかにされました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。
 だれでもわたしのことばを守るなら、
 その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(ヨハネ8:51)

これは以前、ガリラヤの人々に語った言葉に似ています。「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせる」(ヨハネ6:40)

主イエスが私たちに提供された救いの両輪は、罪の赦しと永遠の命です。私たちの過去の最大問題である罪を主は十字架において解決して下さいました。そして、将来誰にでもやって来る死への恐れをも取り除いて下さったのです。

 ユダヤ人たちは激高しました。偉大なアブラハムも死んだというのに、主イエスの言葉を守れば死なないと約束する。そんなあなたはいったい誰なのかと。

「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」(56節)

 アブラハムはこんな日が来るのを喜んでいたと主イエスは述べました。ユダヤ人はその発言にあきれ、50歳にもならない主イエスに何が分かるか、アブラハムを見たはずがないのにと詰め寄りました。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」(58節)

 主イエスは、アブラハムの生まれる前から存在していたと語りました。しかも「わたしはある」という神独特の自己啓示の言葉をあえて使って答えられました。ユダヤ人はこれを冒涜とみなし、石打ちにしようとしました。主イエスがご自分を神と等しくされたからです。
 主イエスは神殿を去りました。皮肉な事に神が神殿を追われたことになりました。

 58節で主イエスが神であると言われた事を唐突に感じる人がいるかもしれませんが、理由があります。死を乗り越える根拠を明らかにされたのです。主イエスがまことの神であるから主イエスの言葉を守る者に死の解決を与えることができるのです。

 旧約聖書に登場したエノクが特別な方法で天に移されたことは、私たちへの励ましになります。

信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。(ヘブル11:5)

信仰者は、永遠のいのちについての理解を日々深めていきましょう。他人からの受け売りでなく、聖書の言葉を土台として心の深い部分で確信を持ちましょう。具体的な死が近づき、身体的な回復が困難になり、痛みや熱や呼吸困難や不快感に包まれる時も、「わたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」との約束をしっかりと握ることができます。主イエスは真実で愛に満ちたお方で、死を経験し復活されたお方で、約束を守られるお方です。

□主イエスの言葉にとどまる者は誰も、死を見ることはない
□主イエスはまことの神、アブラハムの生まれる前からおられた

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