「わたしと父は一つです」(ヨハネ10:30)
紀元前167年、アンティオコス・エピファネスがユダヤを占拠、ユダヤ人を弾圧しエルサレム神殿に異教の神像を据えました。その2年後、マカベアを中心に反乱が起き、神殿から悪しき像を撤去し、宮をきよめた出来事を記念して、毎年12月に祭りが行われるようになりました。「ハヌカ」と呼ばれる祭りとしてユダヤ人によって現在も継続されています。その宮きよめの祭りの時でした。
ユダヤ人、おそらくはパリサイ人たちは、主イエスと話をしていました。主イエスの言葉尻を捉えて石打にする材料を探していました。ですから、30節の言葉を聞いて、冷たい笑みを浮かべたことでしょう。詰んだ!イエスは自分を神と等しくしたから冒涜に当たる。ユダヤ人たちは石打の刑を行う寸前までいきました実行できません。
主イエスと父なる神が一つ。一つとはどんな意味なのでしょう。
主イエスと父なる神が一つというのは、第一に、同じ目的を持っているという意味です。(25〜29節)
主イエスは、ご自分を信じる者を「わたしの羊」と呼ばれました。その羊がいのちを得、つまり、永遠のいのちを得るために来られたのです。主イエスはご自分の羊を継続して守ると約束されました。決して滅ぼさないと言われます。29節で「父の手から奪い去ることはできません」とあり、父なる神も主イエスと同じ目的を持っておられることが分かります。主イエスと父なる神は、その目的において一致しておられるのです。
31〜36節で、聖書の言葉を証拠にして冒涜に当たらないと主イエスは説明されました。詩篇82:6において、人を「神々」と呼んでいる箇所すら聖書にあるのだから、主イエスがご自分を「神の子」と呼ぶことに何の問題もないと言われました。
主イエスと父なる神が一つであると言えることがもう一つあります。
主イエスと父なる神が同じ働きをされているという事です。(37〜38節)ヨハネの福音書においてここまでに主イエの6つの奇跡が記録されています。驚くような奇跡ばかりです。その奇跡は「父のわざ」でありつつ、主イエスのわざだったのです。人を癒したり救ったり苦しみから解放するわざを父も行い、子も行なったのです。「父がわたしにおられ、わたしも父にいる」(38節)
ですから、働きにおいて父と子はまったく一つだったのです。
40~42節で、主イエスはエルサレムを離れヨルダン川のほとりに滞在されたことが分かります。公生涯をスタートした原点に戻ったのです。主イエスのために道を作ったバプテスマのヨハネはもうこの世にいません。主イエスは、公生涯の最終目的の十字架に向かう備えのためにそこに留まられたのでしょう。
「父がわたしにおられ、わたしも父にいる」(ヨハネ10:38)
私たち信仰者も、主イエスを離れて何もできません。主イエスの目的を自分の目的とし、主との交わりを蜜にして主イエスの働きを行いましょう。私たちも御子イエスと一つなのです。
□主イエスは父なる神と一つです
□私たちも主イエスと同じ目的を持ち、主イエスと共に活動しよう
□主イエスは今も私のうちにおられる