2024年12月30日月曜日

ヨハネ10:22~42 わたしと父は一つ

 「わたしと父は一つです」(ヨハネ10:30)

紀元前167年、アンティオコス・エピファネスがユダヤを占拠、ユダヤ人を弾圧しエルサレム神殿に異教の神像を据えました。その2年後、マカベアを中心に反乱が起き、神殿から悪しき像を撤去し、宮をきよめた出来事を記念して、毎年12月に祭りが行われるようになりました。「ハヌカ」と呼ばれる祭りとしてユダヤ人によって現在も継続されています。その宮きよめの祭りの時でした。

ユダヤ人、おそらくはパリサイ人たちは、主イエスと話をしていました。主イエスの言葉尻を捉えて石打にする材料を探していました。ですから、30節の言葉を聞いて、冷たい笑みを浮かべたことでしょう。詰んだ!イエスは自分を神と等しくしたから冒涜に当たる。ユダヤ人たちは石打の刑を行う寸前までいきました実行できません。

 主イエスと父なる神が一つ。一つとはどんな意味なのでしょう。

 主イエスと父なる神が一つというのは、第一に、同じ目的を持っているという意味です。(25〜29節)

主イエスは、ご自分を信じる者を「わたしの羊」と呼ばれました。その羊がいのちを得、つまり、永遠のいのちを得るために来られたのです。主イエスはご自分の羊を継続して守ると約束されました。決して滅ぼさないと言われます。29節で「父の手から奪い去ることはできません」とあり、父なる神も主イエスと同じ目的を持っておられることが分かります。主イエスと父なる神は、その目的において一致しておられるのです。


 31〜36節で、聖書の言葉を証拠にして冒涜に当たらないと主イエスは説明されました。詩篇82:6において、人を「神々」と呼んでいる箇所すら聖書にあるのだから、主イエスがご自分を「神の子」と呼ぶことに何の問題もないと言われました。

 

主イエスと父なる神が一つであると言えることがもう一つあります。

主イエスと父なる神が同じ働きをされているという事です。(37〜38節)ヨハネの福音書においてここまでに主イエの6つの奇跡が記録されています。驚くような奇跡ばかりです。その奇跡は「父のわざ」でありつつ、主イエスのわざだったのです。人を癒したり救ったり苦しみから解放するわざを父も行い、子も行なったのです。「父がわたしにおられ、わたしも父にいる」(38節)

ですから、働きにおいて父と子はまったく一つだったのです。

 40~42節で、主イエスはエルサレムを離れヨルダン川のほとりに滞在されたことが分かります。公生涯をスタートした原点に戻ったのです。主イエスのために道を作ったバプテスマのヨハネはもうこの世にいません。主イエスは、公生涯の最終目的の十字架に向かう備えのためにそこに留まられたのでしょう。

 「父がわたしにおられ、わたしも父にいる」(ヨハネ10:38)

 私たち信仰者も、主イエスを離れて何もできません。主イエスの目的を自分の目的とし、主との交わりを蜜にして主イエスの働きを行いましょう。私たちも御子イエスと一つなのです。

 □主イエスは父なる神と一つです 
 □私たちも主イエスと同じ目的を持ち、主イエスと共に活動しよう
 □主イエスは今も私のうちにおられる

2024年12月22日日曜日

ルカ1:26~38 不可能はない 

 今日はクリスマス礼拝です。 
 未婚のマリアのもとに御使いガブリエルが遣わされた場面を見ていきましょう。

御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)

マリアは混乱しました。恵みも霊的な高まりも経験していないからです。

御使いはマリアの名を呼んで人違いでない事を示しました。その上で再び、神の恵みについて言及しました。
 神の恵みと高級和食店で料理の前に出される「お品書き」は似ています。これから、こんなに素敵なごちそうが来ますよという予告なのです。あなたに届いている恵みのお品書きは何でしょう?

その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。(ルカ13233

男の子が生まれるという事が最初の目に見える恵みです。その子が成長して活躍を始めると次の5つの事が実現します。
 これが二番目の恵みです。①大いなる者になる、②いと高き方の子と呼ばれる、③神からダビデの血を引く王位が与えられる、④イスラエルの王となる、⑤永遠に統治する者となる。マリアは出産後30年以上たってこの恵みを目にすることになります。

 

 次にマリアは、どういう段取りで赤ちゃんを産むのかと御使いに質問しました。自分は結婚していないし、男の人も知らないからです。(34節)

御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。(35節)

 御使いは言いました。マリアが何かをする必要はない。マリアの努力や能力には関係ないのです。これは私たちへの大きな励ましです。私たちには不可能と思える事を神が行われる時は、神が主役なのですから。

 このような形で生まれるので、主イエスは罪のない聖なる者となり、人々の罪の贖いを行う救い主となれるのです。

 御使いはマリアの親戚エリサベツの事を指摘しました。(36節)高齢で不妊と言われていたエリサベツが妊娠6か月であることは、神にとって不可能はないという事の例証となり、マリアへの大きな励ましになりました。

神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:37)

マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った(38節)

マリアは将来予想される困難を承知の上で、御使いの言葉を100%受け入れました。マリアの短い応答の中に、彼女の従順、信頼、献身が結晶しています。若くて未熟な一人の女性の勇気ある信仰がクリスマスの実現に寄与したのです。

私たちも現代のマリアです。神のみこころ、神の言葉は、私たちのような不完全な人間の従順、信頼、献身によって実現していくのです。

私をお使い下さいと主におささげしましょう。

□神のお品書き(恵みの約束)を受け止めよう
□神に不可能はない

□私を通して主の言葉が実現しますように

2024年12月15日日曜日

ヨハネ10:1~21 羊飼いと羊

 ヨハネ10章で主イエスは誰に向かって羊飼いの話をされたのでしょう。

 パリサイ人に向けてです。
 では、どんな目的で話されたのでしょう。
 パリサイ人を叱責するためです。癒された盲人をコミュニティーから追放したパリサイ人は羊泥棒と同じくらいに卑劣だからです。(1~6節)

 当事者だったパリサイ人には主イエスの話が理解できず(6節)、再びパリサイ人の仲間内で主イエスについての評価が分かれてしまいました。(19~21節)

 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。(ヨハネ10:9~10)

 パリサイ人は、エゼキエル書34章で描写されている羊を迷わせ苦しめる醜悪な羊飼いです。主イエスは、詩篇23篇に書いてあるような良い羊飼いです。

 良い羊飼いは、羊の名を呼び、羊のことを良く知っています。(3~4節)貧しい羊飼いは、一匹の羊の誕生を喜び、名前を付け、その名を呼び、大切に育てます。それはイエスさまが私たちを見るのと同じです。

羊飼いは夕方に羊を囲いに入れます。石を組み上げて円環状に作られた囲いには入口が一か所しかありません。羊が1匹程度通れる狭い通路が門ですが扉は無く、夜になると羊飼いがそこに寝て羊を見守り、外敵の侵入に目を光らせ、羊飼い自身が門になるのです。

イエスさまという門によって羊に安らぎが提供されます。つまり救われるのです。日が上れば、イエスさまという門を通って牧草地に導かれ、豊かないのちが与えられます。主イエスを信じる者に与えられる豊かな生活、永遠の命の象徴です。

私たちは主イエスという最良の羊飼いによって愛され、名を呼ばれ、救われ、養われています。私たちは何と幸いな羊なのでしょう。

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(10:11)

十字架の死が半年後に迫っていた時期なので、このことばにはとても力があります。

わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。(16節)

主イエスはユダヤ人という羊に目を留めておられましたが、同時に、羊の囲いの外にいる羊にも強い関心を向けておられました。外国人、すなわちすべての人々の救いです。私たちの周囲に多くの迷った羊がいます。その羊に主イエスさまを紹介したいですね。

良い羊飼いの姿は、主イエスがパリサイ人に民の指導者のあり方を示されたものでした。それだけでなく、現代に生きるあなたにも羊を飼うようにと語り掛けておられるのです。あなたも小さな羊飼いとして家庭や職場や社会に置かれています。あなたの羊は誰ですか。今週、何をしたら良い羊飼いとして歩めますか。

「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)

□主イエスは私の素晴らしい羊飼い
□私も小さな羊飼い

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...