ヨハネ10章で主イエスは誰に向かって羊飼いの話をされたのでしょう。
パリサイ人に向けてです。
では、どんな目的で話されたのでしょう。
パリサイ人を叱責するためです。癒された盲人をコミュニティーから追放したパリサイ人は羊泥棒と同じくらいに卑劣だからです。(1~6節)
当事者だったパリサイ人には主イエスの話が理解できず(6節)、再びパリサイ人の仲間内で主イエスについての評価が分かれてしまいました。(19~21節)
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。(ヨハネ10:9~10)
パリサイ人は、エゼキエル書34章で描写されている羊を迷わせ苦しめる醜悪な羊飼いです。主イエスは、詩篇23篇に書いてあるような良い羊飼いです。
良い羊飼いは、羊の名を呼び、羊のことを良く知っています。(3~4節)貧しい羊飼いは、一匹の羊の誕生を喜び、名前を付け、その名を呼び、大切に育てます。それはイエスさまが私たちを見るのと同じです。
羊飼いは夕方に羊を囲いに入れます。石を組み上げて円環状に作られた囲いには入口が一か所しかありません。羊が1匹程度通れる狭い通路が門ですが扉は無く、夜になると羊飼いがそこに寝て羊を見守り、外敵の侵入に目を光らせ、羊飼い自身が門になるのです。
イエスさまという門によって羊に安らぎが提供されます。つまり救われるのです。日が上れば、イエスさまという門を通って牧草地に導かれ、豊かないのちが与えられます。主イエスを信じる者に与えられる豊かな生活、永遠の命の象徴です。
私たちは主イエスという最良の羊飼いによって愛され、名を呼ばれ、救われ、養われています。私たちは何と幸いな羊なのでしょう。
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(10:11)
十字架の死が半年後に迫っていた時期なので、このことばにはとても力があります。
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。(16節)
主イエスはユダヤ人という羊に目を留めておられましたが、同時に、羊の囲いの外にいる羊にも強い関心を向けておられました。外国人、すなわちすべての人々の救いです。私たちの周囲に多くの迷った羊がいます。その羊に主イエスさまを紹介したいですね。
良い羊飼いの姿は、主イエスがパリサイ人に民の指導者のあり方を示されたものでした。それだけでなく、現代に生きるあなたにも羊を飼うようにと語り掛けておられるのです。あなたも小さな羊飼いとして家庭や職場や社会に置かれています。あなたの羊は誰ですか。今週、何をしたら良い羊飼いとして歩めますか。
「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)
□主イエスは私の素晴らしい羊飼い
□私も小さな羊飼い