今日の箇所では、主イエスに目を癒していただいた元盲人の男性とパリサイ人たちの会話が記録されています。主イエスは登場しません。
こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。(ヨハネ9:15)
前半の13〜17節において、パリサイ人達は何が起きたか事実確認をしています。後半の18〜23節では、パリサイ人達が男性の両親を呼んで本人確認をしました。
すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。(ヨハネ9:16)
パリサイ人達は主イエスに罪があるので処罰したいと考えていました。そのため男性から証拠を得ようとしたのです。形式的にいうならば、主イエスは安息日に奇跡を行い、医療行為という仕事をしたと言いたかったのです。
男性の証言を聞いたパリサイ人達は、目がいやされたのは事実とするしかありません。それに加えて、主イエスが長時間彼に手を置いて祈るなど仕事らしい事をしていない事まで判明しました。
パリサイ人のある人々は今回起きた出来事の意味を考えていました。こんな大きな奇跡をする人物が罪人であるはずがない。もう少し踏み込んで言うなら、主イエスは神から遣わされた特別な人物かもしれないという困惑が見て取れます。
「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」(19節)
パリサイ人は男性と話しているうちに、奇跡自体を否定したくなりました。それで男性の両親を呼び寄せて尋問しました。ですが、たしかに生まれつきの盲人だと分かりました。
客観的に見るとパリサイ人たちのしていることは首尾一貫していません。安息日に奇跡を行ったならば律法違反です。その奇跡を認めたくないという心が芽生えたのですが、奇跡がないなら主イエスの安息日違反自体も消滅します。
皮肉なことに、パリサイ人は主イエスが偉大な奇跡をした事を認めたことになります。また、主イエスが罪人ではなく神から遣わされた特別な人だと暗に言っているのです。
今日の箇所にイエスさまは登場しませんが、人々の話題の中心はイエスさまであり、イエスさまのなされた奇跡でした。つまり、神のわざに焦点が当たっていたのです。
盲人の両親は、自分達に危害が加わることを恐れて多くを語らず、大人になった息子は自分で話せるので彼に直接聞いてほしいと言いました。
両親の語った21節の言葉は、主イエスが元盲人に対して持たれた信頼と類似点があるように私には思えます。主イエスは男性が癒された後、彼と意図的に接触しませんでした。それは、彼の信仰は始まったばかりの小さなものだが、彼はきっと彼らしい信仰告白を行い、困難が立ちはだかっても信仰者として毅然と歩むはずだと信頼されておられたのでしょう。
「もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」(21節)
□イエスさまは、奇跡を行う方
□そこに主イエスがいなくても、神のわざが働く
□自分の信仰を自分の言葉ではっきりと語ろう