過ぎ越しの祭りです。エルサレムと周辺の村は地方からやって来た人々であふれていました。そんな時、主イエスが今日エルサレムに来られるという情報が広まり、大勢の人が主イエスの到来を待ちわびることになりました。
群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。(ヨハネ12:18)
大人気の理由は、主イエスがラザロを生き返らせた事にあります。ラザロの復活の目撃者たちがその時の様子を生き生きと語ったので、人々は主イエスを自分の目で見ようとしました。
人々の姿をよく観察して下さい。①枝を持つ、②出迎える、③大声で叫ぶ。
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)
人々は、勝利や栄誉を象徴するナツメヤシの葉を道に敷き、手にもって歓迎しようとしました。そのため、高さ10mもあるようなナツメヤシの木の頂上の葉を切り取って来たのです。ここに、王への献身、奉仕、従順の姿勢が出ています。
また、自分の家の二階からパレードを眺めるという気楽な態度ではありません。玄関に出る、イエスさまが通る道の最前列に立つ、もっとベタニア村側に近づいてお待ちする、つまり、主イエスを歓迎する心が表れています。
主よ、お待ちしていました。主よ、私の心にお入り下さいという心が感じられます。
人々は叫びました。集団的な信仰告白ともいえます。主イエスを神から遣わされた救い主と認めています。王である主イエスを喜んでいます。当時のユダヤには正式な王もいて、ローマ総督も駐在していましたが、人々は主イエスをイスラエルの王として歓迎しました。
人々が叫んでいるのは詩篇118:25~26の言葉です。「ああ主よ、どうか救って下さい」のヘブル語は、ホシアンー、ナーという発音になり、当時は誰かをほめたたえる時に「ホサナ」と言うようになっていました。
王さまなら大きな名馬に乗って堂々と来るのかと思いきや、小さなロバに乗ってトコトコと来られたので、沿道の人々は笑顔になったはずです。
15節にあるように、弟子たちは後になって主イエスがロバに乗った意味をゼカリヤ9:9から悟りました。
王さまと私。
他国の王は私たちとは何の関係もありません。主イエスを私の王としてお迎えしなければ、主イエスは他人のままです。棕櫚の日曜日の沿道の人々は、「主イエスよ、あなたを歓迎します」「私という独立国の王としてあなたをお迎えします」と言っているのに等しいのです。あなたは、どうですか。
改めてあなたの心の王座に主イエスに座って頂きましょう。イエスさまと相談しながら選択しましょう。人生の最後まで主イエスと共に歩きましょう。
□ホサナ! 主イエスをたたえます。
□主イエスよ、私の心の王座にお着き下さい。