過ぎ越しの祭りまで6日と迫っています。ベタニア村のマルタの家では、主イエスと十二弟子を迎えて夕食の席になりました。
人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。 (ヨハネ12:2)
マルタは以前のように苛立っていません。マリアの香油についても口出ししません。
なぜでしょう。
ラザロのよみがえりを感謝しているからです。主イエスと交わした会話でマルタの心と信仰が変えられたのです。マルタはこの忙しさを楽しみ、笑顔で走り回って奉仕したことでしょう。
「イエスのため」(2節)の食事だと理解していたのです。料理作りやもてなしがマルタにとってのナルドの香油です。
一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)
7節を見ると、マリアがこの日のために「取っていた」香油だと分かります。おそらくは、主イエスがマリアの家に来た時に、祭司長たちがあなたを指名手配していてこの場所は危険ですと話したはずですが、主イエスの返答や様子を受けて、主イエスの死が近いとマリアは悟ったのでしょう。
高価なナルドの香油を一度に注ぐ行為は、マリアから主イエスへの尊敬、感謝、賛美、愛、献身、などを表す礼拝行為です。足の香油を髪の毛でぬぐうしぐさは主イエスにひれ伏さなければできない姿勢です。
それまではご馳走の匂いで部屋は一杯でしたが、香油が注がれると家中にかぐわしく高貴な香りが満ちました。この香りは、神の子、救い主、王の王にふさわしい目に見えない王服とも言えます。
「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5節)
十二弟子のユダは、マリアの純粋な礼拝行為をなじりました。無駄だ。その香油は年収に等しい価値があり、その金で貧しい人に施したほうが役に立つとマリアを責めました。
6節にあるように、ユダは十二弟子の会計係をしていながら金を盗んでいました。単なる着服以上に後ろめたい事を抱えていたのでしょう。それでマリアを責めました。さらに言えば、隣人を愛すべきだという分析や視点を主イエスに認めてもらいたかったのでしょう。主イエスはユダの主張を退け、マリアの献身と礼拝を受け入れて下さいました。
あなたは誰に似ていますか。マルタ、マリア、ユダ。
掃除、料理、皿洗い、賛美練習、会計処理、会議出席、草取り。そうした行為を主のためにするならマルタの喜びを持つことができます。
ただただ賛美する、自分の人生をおささげする、思い切った献金をする。それらを主イエスのためだけにするならば、マリアと共にナルドの香油をささげることができます。
□主のために、奉仕する
□主にだけ、ささげ尽くす