2025年3月30日日曜日

ヨハネ13:21~30 ユダの場合

あなたは裏切られたことがありますか。
 誰かを裏切った事がありますか。

イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(ヨハネ13:21)

神の子であっても裏切られる事は心騒ぐ出来事でした。

通常、裏切り者が発見されたら、その者は拘束され、拷問や死刑にされる場合もあります。主イエスは、裏切り者の名前を公にせず、処罰もしません。

ペテロが裏切り者を知りたかったのは(24節)、制裁を加えるつもりだったのでしょう。

 

「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」(ヨハネ13:26)

 先生自らがパンをぶどう酒に浸して食べなさいと弟子に渡す行為は親愛の情です。ユダが主イエスの愛を実感した瞬間、サタンが邪魔しました。

ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」(ヨハネ13:27)

主イエスはユダに最後のチャンスを与えました。大祭司に主イエスの居場所を教えるか、すべてを打ち明けて自分の非をわびるか、ここで選べたのです。

 

一般的に言って、裏切りは二人の被害者を作ります。裏切られた人と裏切った人です。裏切られた人は、裏切った人を生涯憎み赦しません。裏切った人は深く後悔し、自分の正当化と責任転嫁を続けねばなりません。

ユダが裏切った理由を推測してみましょう。
①活動費を盗んでいたので(12:6)後ろめたく、うやむやにしたかった。
②香油の無駄使いを指摘したのにイエスに否定され(12:7)逆恨みした。
③祭司らに命を狙われていたので(11:57)自分だけは助かりたかった。
④悪魔の誘惑に負けてしまった(13:2、27)
 聖書本文に直接出てこないが、期待したキリスト像と違ったので失望した、主イエスからの愛を求めていたのに感じられなかったなどという主観的な落胆や一方的な誤解の可能性も考えられます。

主イエスは、弟子としてユダの可能性を見出し、3年間育て、その成長を喜んでおられたはずです。裏切りが決定的になった時の主イエスの悲しみはいかばかりでしょう。主イエスは最後の最後までユダにだけ分かる方法でシグナルを送っていました。

主イエスはユダの裏切りを知った後もエルサレムから退避せず、計画も変更せず、ゲッセマネの園で祈っておられました。まるでユダを待つかのように。

主イエスが十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)と祈られましたが、「彼ら」の中にユダも含まれていたのだと思います。

□大切な人を裏切らない。
□裏切ろうとするユダに主イエスはシグナルを送られた。
□主イエスは赦すお方。

2025年3月23日日曜日

ヨハネ13:1~11 足を洗う 

イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。」(ヨハネ13:12)

 主イエスは十二弟子の足を洗って席に戻られました。それから十二弟子に向かって質問されました。わたしのしたことの意味が分かるか?

 この質問の後、主イエスはしばらく沈黙され、弟子たちに考える時間を与えたと私は思うのです。

今日は、主イエスの質問を私たちも考えてみましょう。理解を深めた後に、私たちも誰かの足を洗う者になりたいです。

主イエスが弟子たちの足を洗われましたが、その最中、主イエスは何を考えておられたのでしょう。その弟子を招いた場面、3年間に起きた印象的な出来事、その弟子の失敗や成長を思い出されたと思います。

 

主イエスが弟子たちの足を洗った意味は、まず、次の二つが挙げられます。

第一に、1節にあるように「彼らを最後まで愛された」主イエスの愛の表現です。主イエスは、不完全で問題だらけで何も悟っていない弟子たちを深く愛されました。

第二に、6~10節で語られているように、足を洗うとは罪を洗いきよめることです。主イエスは弟子の足の砂や塵を洗い落されました。それは、十二弟子各自の罪を赦し、罪の解決をされることを意味しています。

最後に、第三の意味が明かされました。(13~17節)先生と呼ばれる主イエスが弟子の足を洗ったことを心に留めなさい。年齢や立場や能力などに関わらず、お互いを尊敬しなさい。謙遜な心を持ちなさい。仕え合いなさい。助け合いなさい。その人達の失敗や罪を覆いなさい。

組織というものは偉大な指導者がいなくなると後継者争いや仲間割れが起こります。主イエスが天に帰られた後も十二弟子が団結していられるようにこの秘訣を授けられたのです。

「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」(ヨハネ13:17)

「幸いです」というフレーズはマタイの福音書に多く用いられています。ヨハネの福音書では二か所だけに記録されています。一つは、見ずに信じる者が幸い(ヨハネ20:29)とトマスに語られた場面です。もう一つが今日の箇所です。主イエスが足を洗われた意味をあなたなりに深く考えてみましょう。あなたは誰の足を洗いたいですか。何をすることが、足を洗うことになりますか。

先に挨拶をする、尊敬を表す、存在を喜ぶ、さりげなく援助する、困った時に力になるなど、色々なやり方があると思います。良く考えて下さい。

「旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助ける」(第一テモテ5:10)
 「愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)

 □イエスさまに足を洗ってもらったことを感謝しよう
 □兄弟姉妹を尊敬し、互いの足を洗おう

2025年3月16日日曜日

ヨハネ13:1~11 足を洗う 

さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(ヨハネ13:1)

今日の箇所で第一に語られているのは、主イエスの愛です。

主イエスは十二弟子との食事を設け、別れを惜しみ、愛のすべてを注ぎ出すようにして最後の時を過ごされました。弟子たちの足を洗うという行為にその愛が凝縮されています。

悪魔がユダに裏切りの思いを入れたとありますが(ヨハネ13:2)、この記述はヨハネの福音書だけにあります。本来のユダは他の弟子たちと変わらない善良な信仰者だったのに、活動費を盗むことをきっかけに(ヨハネ12:6)悪魔に隙を突かれ主イエスを裏切るまでになったというヨハネの見立てが書かれています。主イエスは、十二弟子全員の足を洗われました。もちろんユダの足も洗いました。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。(ヨハネ13:4~5)

一人一人の足を洗いながら、きっと主イエスは3年間の歩みを振り返り、その弟子とのエピソードを思い起こし、祈られたのだと思います。<あなたを愛しているよ。あなたと共に過ごした時間は貴重な時だった。あなたの失敗も罪も赦しているよ。あなたには素晴らしい賜物と可能性がある。今後の人生が祝福されるように。>

 

上着を脱いで僕の姿になった主イエスが目の前に跪く様子を見て、ペテロは非常に驚き居心地が悪くなりました。その時、主イエスは意味深長な言葉を言われました。

イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」(ヨハネ13:7)

私たちの人生にもとても必要な言葉です。今起きていることの意味が分からない。急いで答えを見つけようとしても焦る気持ちが先に立つ。そんな時は、主イエスの言葉を心に留めましょう。

 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」(ヨハネ13:8)

 足を洗うという行為は、主イエスの愛を示すと共に、罪を洗い流すための十字架を予表しています。ですから、主イエスの行為を拒否してはいけません。私たちの罪は主イエスに洗いきよめて頂く必要があるのです。

□主イエスはあなたの足を洗うほどにあなたを愛しておられます
□今、分からなくても、後で分かることがある


ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...