2025年3月23日日曜日

ヨハネ13:1~11 足を洗う 

イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。」(ヨハネ13:12)

 主イエスは十二弟子の足を洗って席に戻られました。それから十二弟子に向かって質問されました。わたしのしたことの意味が分かるか?

 この質問の後、主イエスはしばらく沈黙され、弟子たちに考える時間を与えたと私は思うのです。

今日は、主イエスの質問を私たちも考えてみましょう。理解を深めた後に、私たちも誰かの足を洗う者になりたいです。

主イエスが弟子たちの足を洗われましたが、その最中、主イエスは何を考えておられたのでしょう。その弟子を招いた場面、3年間に起きた印象的な出来事、その弟子の失敗や成長を思い出されたと思います。

 

主イエスが弟子たちの足を洗った意味は、まず、次の二つが挙げられます。

第一に、1節にあるように「彼らを最後まで愛された」主イエスの愛の表現です。主イエスは、不完全で問題だらけで何も悟っていない弟子たちを深く愛されました。

第二に、6~10節で語られているように、足を洗うとは罪を洗いきよめることです。主イエスは弟子の足の砂や塵を洗い落されました。それは、十二弟子各自の罪を赦し、罪の解決をされることを意味しています。

最後に、第三の意味が明かされました。(13~17節)先生と呼ばれる主イエスが弟子の足を洗ったことを心に留めなさい。年齢や立場や能力などに関わらず、お互いを尊敬しなさい。謙遜な心を持ちなさい。仕え合いなさい。助け合いなさい。その人達の失敗や罪を覆いなさい。

組織というものは偉大な指導者がいなくなると後継者争いや仲間割れが起こります。主イエスが天に帰られた後も十二弟子が団結していられるようにこの秘訣を授けられたのです。

「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」(ヨハネ13:17)

「幸いです」というフレーズはマタイの福音書に多く用いられています。ヨハネの福音書では二か所だけに記録されています。一つは、見ずに信じる者が幸い(ヨハネ20:29)とトマスに語られた場面です。もう一つが今日の箇所です。主イエスが足を洗われた意味をあなたなりに深く考えてみましょう。あなたは誰の足を洗いたいですか。何をすることが、足を洗うことになりますか。

先に挨拶をする、尊敬を表す、存在を喜ぶ、さりげなく援助する、困った時に力になるなど、色々なやり方があると思います。良く考えて下さい。

「旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助ける」(第一テモテ5:10)
 「愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)

 □イエスさまに足を洗ってもらったことを感謝しよう
 □兄弟姉妹を尊敬し、互いの足を洗おう

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...