さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(ヨハネ13:1)
今日の箇所で第一に語られているのは、主イエスの愛です。
主イエスは十二弟子との食事を設け、別れを惜しみ、愛のすべてを注ぎ出すようにして最後の時を過ごされました。弟子たちの足を洗うという行為にその愛が凝縮されています。
悪魔がユダに裏切りの思いを入れたとありますが(ヨハネ13:2)、この記述はヨハネの福音書だけにあります。本来のユダは他の弟子たちと変わらない善良な信仰者だったのに、活動費を盗むことをきっかけに(ヨハネ12:6)悪魔に隙を突かれ主イエスを裏切るまでになったというヨハネの見立てが書かれています。主イエスは、十二弟子全員の足を洗われました。もちろんユダの足も洗いました。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。(ヨハネ13:4~5)
一人一人の足を洗いながら、きっと主イエスは3年間の歩みを振り返り、その弟子とのエピソードを思い起こし、祈られたのだと思います。<あなたを愛しているよ。あなたと共に過ごした時間は貴重な時だった。あなたの失敗も罪も赦しているよ。あなたには素晴らしい賜物と可能性がある。今後の人生が祝福されるように。>
上着を脱いで僕の姿になった主イエスが目の前に跪く様子を見て、ペテロは非常に驚き居心地が悪くなりました。その時、主イエスは意味深長な言葉を言われました。
イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」(ヨハネ13:7)
私たちの人生にもとても必要な言葉です。今起きていることの意味が分からない。急いで答えを見つけようとしても焦る気持ちが先に立つ。そんな時は、主イエスの言葉を心に留めましょう。
ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」(ヨハネ13:8)
足を洗うという行為は、主イエスの愛を示すと共に、罪を洗い流すための十字架を予表しています。ですから、主イエスの行為を拒否してはいけません。私たちの罪は主イエスに洗いきよめて頂く必要があるのです。
□主イエスはあなたの足を洗うほどにあなたを愛しておられます□今、分からなくても、後で分かることがある