2025年3月9日日曜日

ヨハネ12:37~50 誰が信じたか

 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。(ヨハネ12:37)

十二弟子の一人、ヨハネは嘆いています。多くの奇跡を見た人々がイエスを信じないことを驚いています。寝たきりの病人が歩き出し、生まれつきの盲人が見えるようになり、喜んで神をたたえる場面を目の当たりにしても主イエスを救い主として認めない人がいたのです。
 ローマ皇帝カエサルは「人は見たいと欲する現実しか見ない」と言いました。

「私たちが聞いたことを、だれが信じたか」(ヨハネ12:38)

ヨハネはイザヤの言葉(イザヤ6章、53章)を頼りにして目の前の現実を受け止めようとしました。

救い主がこの地上に来ると、何を見ても聞いても拒絶する人々が現れるとイザヤは言うのです。主が彼らの目を見えないようにし、心を頑なにされたという意味はこうです。心を閉ざす人々がいたら、彼らの行きたい方向に行かせる。それが主のなさった事です。

 44節以降、主イエスは十二弟子への教えや祈りに専念されます。44~50節は主イエスが公に人々に語られる最後の言葉になります。ですから、内容的には今までの繰り返しであり、まとめになります。

また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネ12:45)

主イエスを信じることは父なる神を信じることになる。神を見たいなら主イエスを見れば良い。(44~45節)

主イエスが来られた目的は人々をさばくためでなく、滅びから救うためです。主イエスは光なので、主イエスを信じた者は闇の中を歩くことはない。父なる神が私たちに与えようとしているものは永遠の命です。(46~50節)

 一言で言うなら、わたしを信じなさい、ということです。

そもそも主イエスはガリラヤにおいて活動の初期にヨハネが引用したイザヤの預言に言及しておられました。(マルコ4:12)つまり、奇跡に目を閉ざす頑なな人の出現を承知の上で主イエスは3年間語り続けてきたのです。寄せては返す波のように、主イエスは愛を届け、語り掛け、心を固く閉ざした人にも向き合ってこられたのです。

何としても永遠の命を与えたいという父なる神の思いを一心に受け止めて、主イエスは私たちに救いの手を差し出しておられるのです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」(ヨハネ12:50)

□神のみわざを見て、目と心を閉ざしてはいけない
□主イエスを見ることは神を見ること
□主イエスを信じるなら闇の中を歩くことはない
□神の願い、それが永遠の命

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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