2025年4月27日日曜日

ヨハネ14:1~3 心を騒がすな    

今日の箇所を含むヨハネ13~17章は山上の垂訓以上に長い主イエスのまとまった言葉になります。それは、主イエスが地上からいなくなった世界で十二弟子がどう生きていけば良いかという内容です。

パウロの言葉でいうなら”In Christ”、キリストにあって生きるとはどういう事かが解説されています。さらに、聖霊についても多く言及されているので、三位一体の神と共に歩む秘訣と言ってもよいでしょう。

ですが十二弟子が恐れと不安の中にいたので、まず彼らを落ち着かせようとされました。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。
  神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

 思い煩いは、いくつかの選択肢や可能性について逡巡することです。心を騒がすことは、突然の恐怖で自分を失うことでパニック状態に近いです。

弟子たちにとっては、主イエスの逮捕や死刑、そして自分たちの逮捕の可能性が高まったことで恐怖にかられていました。弟子の誰かが主イエスを裏切ることも分かり、男気のあるペテロですら朝方までに主イエスを置いて逃げる可能性が出て来て、弟子たちは浮足立っていたのです。

あなたは今、思い煩っていますか、心騒ぐ状態にいますか。

 主イエスの忠告はシンプルでした。ストップとゴーを分かりやすく示されました。心騒ぐことを止める。そして、信じる。それだけです。

問題ばかりに目を留めるとそれに支配されます。焦点を当てるべきは神です。否定的な人生の天気予報を止めて、今、足を地面につけて信仰を働かせましょう。

 神を信じ、わたしを信じなさい、と二つの事を同時に言われました。それはなぜでしょう。

父なる神と子なる神イエスの間には力強い信頼と愛のぬくもりがありますが、その隙間に弟子たちは招かれたのです。仲の良い両親に挟まれた幼児は、お父さんの手とお母さんの手を握り、いや、握られて歩く姿は安心と喜びに満ちています。それと同じように、私たちも父なる神と子なる神主イエスに囲まれて歩むなら、パニックから解放されます。あなたの両手を神と主イエスに向かって上げましょう。

 

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:2~3)

 自分を失い行き詰った人は近視眼的になります。ですから主イエスは大きな地図を見せて人生を俯瞰できるようにされました。

あなたの家を用意しておく、最終的なことは心配いらないと主イエスが言われたのです。場所が用意できたら迎えに来る、その後、ずっと共にいると約束されました。

主イエスはどんな旅行会社より信頼できる人生旅行プランナーです。私たちの接する小さなコミュニティーで行き詰っても、神の国には素晴らしい部屋が用意されているのです。そういえば、からだを殺しても魂を殺せない人間を恐れるな(マタイ10:28)と主イエスは言っておられました。

心騒ぐ者たちに言え……神は来て、あなたがたを救われる(イザヤ35:4)

 □心騒いでいるなら、まずストップです
 □父なる神と主イエスの間に入れてもらう
 □あなたの終の棲家は主イエスが用意しておられます

2025年4月20日日曜日

ルカ24:36~43 焼いた魚 

今日はイースター。復活されたイエスさまの御名をほめたたえます。

あの日曜日の夜、十二弟子は当局の捜査を恐れて戸締りを厳重にしていました。(ヨハネ20:26)日曜の早朝、マグダラのマリアたちは主イエスの墓に行きましたが主イエスはそこにおられず、よみがえったという天使の言葉を弟子たちに伝えました。(ルカ24:23)そこに、主イエスがペテロに現れたという話が伝えられ(ルカ24:34、第1コリント15:5)、さらにクレオパら二人のクリスチャンが合流してきてエマオ途上で主イエスにお会いしたと報告しました。(35節)

これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。(ルカ24:36)

主イエスの復活が十二弟子の間で確実視されていた時でしたが、閉ざされた部屋に主イエスが突然現れた驚きから目に見えるのは主イエスの幽霊だと感じたようです。

 平安があるようにと主イエスは言われました。主イエスの復活の目的の一つは、平安を与えるためでした。

かつて主イエスは弟子たちに伝道旅行の心構えとして、泊まらせてくれる家のために平安を祈れと命じられました。その平安はその家の人々にとどまると教えられました。(ルカ10:5~6)今、不安と混乱と悲しみの真っただ中にある十二弟子にとって、平安は何よりも必要なものだったのです。

 主イエスが与える平安は特別でした。(ヨハネ14:27)パウロが手紙の冒頭に平安を祈りますが、それは主イエスの精神を手紙に応用したものかもしれません。あなたにも主イエスの平安がありますように。

 

わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」(ルカ24:39)

弟子たちがおびえてしまったので、私だと教えるために手や足をお見せになりました。釘の痕が(ヨハネ20:27)主イエスの印となったからです。

弟子たちは喜びに満たされてきましたが、まだ不思議がっていたので(41節)霊ではなくて肉体がある事を知らせるために食べ物を食べることにしました。ちょうど焼いた魚があったのでそれを召し上がりました。

弟子たちにとって魚とイエスさまの思い出は印象深いものでした。五千人の給食の魚、網一杯の大量の魚、魚から出て来た銀貨など、そして今回の焼き魚です。

主イエスが弟子たちの視線をあびながら魚を食べて下さったのは私たちに対するメッセージになっています。私たちが復活する時も、ぼやっと霊の形で再現するのではなく新たな肉体を持って復活すると教えておられるのです。

第一コリント15:42~44、52~55をお読みください。パウロは復活の体について詳しく説明しています。死者は朽ちない体によみがえり私たちは変えられるのです。

 □平安を与えるため主イエスはよみがえられた
 □私たちも新たな肉体を持って復活にあずかれる 


2025年4月13日日曜日

ヨブ記14:7~9 木には望みがある

ヨブ記14:7~9 木には望みがある            4月13日2025年

主イエスの死を経験したイースター前の十二弟子の悲しみとヨブの苦難の間に類似点があるように思われます。

尊敬し愛してやまない主イエスが死なれました。十二弟子は悲しみのあまり何も考えられなかったでしょう。自分の命もあぶないという恐怖感、主イエスを見捨てて逃げた罪責感、信じていた事が消え去りそうな虚脱感、希望という字を見出すことができない状況でした。

ヨブは信仰深い人でしたが、とても悲惨な災難にあいました。一日のうちに、すべての子供を失い、財産もほとんど全部失いました。
 その上、妻にも見捨てられ(2:9)、親友たちにもは誤解され(6:14)、全身皮膚病になりました。(7:4~5) そんな時にヨブの心をとらえたのは木の姿でした。

木には望みがある。
 たとえ切られても、
 また芽を出し
 その若枝は絶えることがない。(ヨブ記14:7~9)

人は死んだら終わりで、倒れて死んだら起き上がれない。けれども、木は違う。
 残酷に切り倒された木であっても、その切り株から小さな芽がはえてきます。死んだような枯れ木でも地下の根は生きていて、水がやって来ると息を吹き返すことがあるのです。ヨブはその力強さと回復力のある木にあこがれました。

ヨブ記は彼の苦悩の叫びで満ちていますが、嵐の雲間にわずかに青空が見える瞬間があるように、ヨブが希望を語る箇所が何か所かあります。

たとえば、天には私の証人がおられる(16:19)、私を贖う方は生きておられる(19:25)、神にはすべてのことがおできになる(42:2)と告白している箇所などです。そして、今日の箇所も、希望の言葉です。

 

 内村鑑三の「寒中の木の芽」という詩があります。冬の枝に主の慰めを見出し、枯れた木にも希望を見出しています。   

 春の枝に花あり
 夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり
 冬の枝に慰あり

木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出しその若枝は絶えることがない。(ヨブ記14:7~9)

 ヨブの言葉の中に「若枝」という表現があります。預言者たちは後に、特別な意味を込めて「若枝」を取り上げました。
 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ11:1)「わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす」(エレミヤ23:5)「義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの地に公正と義を行う」(エレミヤ33:15)「見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる」(ゼカリヤ3:8)「見よ、ひとりの人を。その名は若枝」(ゼカリヤ6:12)

「木には望みがある」とヨブは言いますが、「木」の代わりに誰かの名前を入れてみましょう。主イエスのお名前を入れるとしっくりきますね。あなたの名前を入れてみるとぎこちないですか。そんなことはありません。幹である主イエスにつながった私たち(ヨハネ15:5)なら、私たちも望みのある木になれます。

主イエスに望みがあります。主イエスにつながる私たちにも希望があります。

□木には望みがある
□主イエスが私のあがない主であり私の望みです
□私にも希望があります。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...