主イエスの死を経験したイースター前の十二弟子の悲しみとヨブの苦難の間に類似点があるように思われます。
尊敬し愛してやまない主イエスが死なれました。十二弟子は悲しみのあまり何も考えられなかったでしょう。自分の命もあぶないという恐怖感、主イエスを見捨てて逃げた罪責感、信じていた事が消え去りそうな虚脱感、希望という字を見出すことができない状況でした。
ヨブは信仰深い人でしたが、とても悲惨な災難にあいました。一日のうちに、すべての子供を失い、財産もほとんど全部失いました。
その上、妻にも見捨てられ(2:9)、親友たちにもは誤解され(6:14)、全身皮膚病になりました。(7:4~5) そんな時にヨブの心をとらえたのは木の姿でした。
木には望みがある。
たとえ切られても、
また芽を出し
その若枝は絶えることがない。(ヨブ記14:7~9)
人は死んだら終わりで、倒れて死んだら起き上がれない。けれども、木は違う。
残酷に切り倒された木であっても、その切り株から小さな芽がはえてきます。死んだような枯れ木でも地下の根は生きていて、水がやって来ると息を吹き返すことがあるのです。ヨブはその力強さと回復力のある木にあこがれました。
ヨブ記は彼の苦悩の叫びで満ちていますが、嵐の雲間にわずかに青空が見える瞬間があるように、ヨブが希望を語る箇所が何か所かあります。
たとえば、天には私の証人がおられる(16:19)、私を贖う方は生きておられる(19:25)、神にはすべてのことがおできになる(42:2)と告白している箇所などです。そして、今日の箇所も、希望の言葉です。
内村鑑三の「寒中の木の芽」という詩があります。冬の枝に主の慰めを見出し、枯れた木にも希望を見出しています。
春の枝に花あり
夏の枝に葉あり
秋の枝に果あり
冬の枝に慰あり
木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出しその若枝は絶えることがない。(ヨブ記14:7~9)
ヨブの言葉の中に「若枝」という表現があります。預言者たちは後に、特別な意味を込めて「若枝」を取り上げました。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ11:1)「わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす」(エレミヤ23:5)「義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの地に公正と義を行う」(エレミヤ33:15)「見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる」(ゼカリヤ3:8)「見よ、ひとりの人を。その名は若枝」(ゼカリヤ6:12)
「木には望みがある」とヨブは言いますが、「木」の代わりに誰かの名前を入れてみましょう。主イエスのお名前を入れるとしっくりきますね。あなたの名前を入れてみるとぎこちないですか。そんなことはありません。幹である主イエスにつながった私たち(ヨハネ15:5)なら、私たちも望みのある木になれます。
主イエスに望みがあります。主イエスにつながる私たちにも希望があります。
□木には望みがある
□主イエスが私のあがない主であり私の望みです
□私にも希望があります。