2025年4月20日日曜日

ルカ24:36~43 焼いた魚 

今日はイースター。復活されたイエスさまの御名をほめたたえます。

あの日曜日の夜、十二弟子は当局の捜査を恐れて戸締りを厳重にしていました。(ヨハネ20:26)日曜の早朝、マグダラのマリアたちは主イエスの墓に行きましたが主イエスはそこにおられず、よみがえったという天使の言葉を弟子たちに伝えました。(ルカ24:23)そこに、主イエスがペテロに現れたという話が伝えられ(ルカ24:34、第1コリント15:5)、さらにクレオパら二人のクリスチャンが合流してきてエマオ途上で主イエスにお会いしたと報告しました。(35節)

これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。(ルカ24:36)

主イエスの復活が十二弟子の間で確実視されていた時でしたが、閉ざされた部屋に主イエスが突然現れた驚きから目に見えるのは主イエスの幽霊だと感じたようです。

 平安があるようにと主イエスは言われました。主イエスの復活の目的の一つは、平安を与えるためでした。

かつて主イエスは弟子たちに伝道旅行の心構えとして、泊まらせてくれる家のために平安を祈れと命じられました。その平安はその家の人々にとどまると教えられました。(ルカ10:5~6)今、不安と混乱と悲しみの真っただ中にある十二弟子にとって、平安は何よりも必要なものだったのです。

 主イエスが与える平安は特別でした。(ヨハネ14:27)パウロが手紙の冒頭に平安を祈りますが、それは主イエスの精神を手紙に応用したものかもしれません。あなたにも主イエスの平安がありますように。

 

わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」(ルカ24:39)

弟子たちがおびえてしまったので、私だと教えるために手や足をお見せになりました。釘の痕が(ヨハネ20:27)主イエスの印となったからです。

弟子たちは喜びに満たされてきましたが、まだ不思議がっていたので(41節)霊ではなくて肉体がある事を知らせるために食べ物を食べることにしました。ちょうど焼いた魚があったのでそれを召し上がりました。

弟子たちにとって魚とイエスさまの思い出は印象深いものでした。五千人の給食の魚、網一杯の大量の魚、魚から出て来た銀貨など、そして今回の焼き魚です。

主イエスが弟子たちの視線をあびながら魚を食べて下さったのは私たちに対するメッセージになっています。私たちが復活する時も、ぼやっと霊の形で再現するのではなく新たな肉体を持って復活すると教えておられるのです。

第一コリント15:42~44、52~55をお読みください。パウロは復活の体について詳しく説明しています。死者は朽ちない体によみがえり私たちは変えられるのです。

 □平安を与えるため主イエスはよみがえられた
 □私たちも新たな肉体を持って復活にあずかれる 


ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...