2025年5月18日日曜日

ヨハネ14:15~24 助け主 

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ1416

十二弟子は主イエスとの別れを意識し漠然とした不安を持っていました。それで主イエスは信頼できる「助け主」を送ると約束されたのです。

そのお方とは聖霊です。人格を持たれた三位一体の神です。主イエスと同等の役割を果たす方なので「もう一人の」と説明されました。

主イエスは十二弟子が弱いことを知っておられました。私たちも皆弱い者です。自分の経験や知識や頑張りや体力や財力では歯が立たない困難に直面した時、誰か力のある人にすがるしかありません。そんな時、私たちは聖霊に頼れるのです。

ここで聖霊のことを主イエスは「助け主」(パラクレイトス)と呼ばれました。パラという接頭辞は、そばに、かたわらにという意味です。聖霊は私たちのそばに「いつまでも」(16節)おられ、決して離れずに共にいて下さるだけでなく「あなたがたのうちに」(17節)おられる方です。

 

この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。(17節)

御霊は真理の御霊です。私たちに必要な神のみこころの中心を鮮やかに示して下さいます。

また、私たちの人生の分岐点でどちらを選んだら良いか迷う時に、みこころにかなう方向を示して下さいます。

ヨハネの福音書の基本的枠組みは論理的です。主イエスが救い主であることを7つの奇跡で説明してきたアウトラインからもそれは分かります。けれども、主イエスの涙を記述し、主イエスと弟子たちの心の動きを語り、人々の内面にまで迫る面を持っています。

まるでクラシック音楽のように中心メロディーが演奏されその模倣や追いかけっこが起きメロディーが変化発展して再び主題が繰り返されるように、繰り返しの多用により大切な真理が私たちの心深くに刻まれていきます。

父なる神という栄光あるメロディーに子なる神イエスさまの謙虚で清らかなメロディーがからまり、助け主の聖霊という優しい和音が加わって三位一体の音楽が奏でられ、それに私たちが入れて頂くのです。その事をイエスさまが説明されたのが23節です。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(23節)

私たちが袋小路に迷い、自分の愚かさと無力さに失望した時に御霊なる神、パラクレイトスがヘルパー、カウンセラー、弁護者として私たちを守り導いて下さいます。御霊の語り掛けに耳を傾けましょう。必ず助けて下さいます。

 □静かな心で御霊の声を聞こう
 □御霊は私のうちにおられる

 □私は、父と子と聖霊の交わりに入れられている

2025年5月11日日曜日

ヨハネ14:8~14 父と子 

 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。(ヨハネ14:9)

主イエスとトマスとの会話を聞いて刺激を受けたピリポはこう尋ねました。イエスさまの父を見せて下さい。そうすれば満足します。(8節)

有限で罪人の人間は神を見ることはできないと普通はお答えになるところですが、主イエスは意外なことを言われました。あなたは既に父を見ている。私を見た者は父を見たことになるのだと。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。(ヨハネ14:10)

主イエスは父なる神が言われたことを語っておられました。(ヨハネ12:50)また、主イエスのなさる奇跡は父のわざでした。(ヨハネ9:3~4)だから主イエスを見ているなら父なる神の言葉も行動も分かるのです。イエスさまが父のうちにおられ、父もイエスさまのうちにおられるという事はまさにそのような事なのです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(ヨハネ14:14)

14節はここだけ見ると唐突に思えますが、ここに至る流れがあります。

主イエスはピリポの質問を聞いて、少しがっかりされています。父なる神のお姿を見ることができたならしばらくの間は感激するでしょうが、やがて経験は過去になり鈍化します。一時的な満足で終わります。それよりももっと素晴らしい事があると主イエスはピリポに言われたのです。

主イエスと父なる神の関係はとても親密でした。主イエスを見ると父なる神が見えましたが、同じことがピリポと主イエスの間で起きたならどんなに幸いでしょう。ピリポの語る言葉が主イエスと同じ言葉になり、ピリポが行うことが自然に主イエスと同じになる。その親密な関係の中でピリポが何かを願うなら、それは主イエスのみこころと同じになる。そうです、主イエスの名によって求めるなら、主イエスはそれをかなえて下さるという事が実現するのです。

ひと時の間神を見る経験よりもっと素晴らしいものを求めましょう。第二コリント3:18でパウロが言ったように、主と同じ姿に変えられることを求めましょう。ガラテヤ2:20でパウロが語ったように「私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きているのです」という状態を目指しましょう。私たちが主イエスのうちにおり、主イエスが私の内におられる、そのような密接な関わりを求めていきましょう。

□主イエスは父の内に、父なる神はイエスの内に
□主イエスは私の内に、私も主イエスの内に
□主イエスよ、私のうちに現れてください


2025年5月4日日曜日

ヨハネ14:4~7 道、真理、いのち 

 弟子のひとり、トマスは空気を読まない変わり者です。


十二弟子全員が復活の主イエスに会った場面にトマスは不在で、彼らの証言を聞いても主イエスの手の釘の跡に指を入れなければ信じないと言う人でした。(ヨハネ20章)

    他の3つの福音書にトマスの話題は無く、完全に無視されています。おそらくヨハネはトマスの良き理解者だったのでしょう。3度も彼の言動を書いています。

 

11章でトマスは「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言っています。ラザロが死んだので主イエスは死ぬおつもりだとトマスは早合点したのです。後を追って十二弟子みんなで死のうと悲壮な覚悟を示しました。トマスは人一倍主イエスを愛し尊敬していたのです。どこまでもついて行きますという従順さを持っていたのです。

 

 今日の箇所においてもトマスは空気を読んでいません。イエスさまが、わたしの行く所は分かっているだろう、そこに至る道も知っているはずと言われました。(ヨハネ14:4)それを聞いて、分かりませんと平然と言ってのけるのがトマスです。十二弟子全員も自分と同じ意見だと思ったので「私たち」という主語で話しています。

 

トマスは主イエスの行かれる場所を確実に知りたかったのです。ついて行きたかったのです。そこに至る道を自分も通りたかったのです。

 

 あなたはどうですか。主イエスの行くところに行きたいですか。同じ道を進みたいですか。

 

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)

 

 主イエスの行き先は、父のみもとです。そこに至る道とは、主イエスご自身です。

イエスさまは「真理について証しするために生まれ」た(ヨハネ18:37)と言われました。主イエスは物理の定理のような冷たい真理ではなく、私たちに生きる力を与える「いのち」としての真理です。

 

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(14:7)

 

 私たちは、父のもとに行くまで父なる神のことが分からないのでしょうか。いいえ、違います。主イエスを知ることが父を知ることなのです。さらに今後は、父をもっと知ることになるのです。でも実を言うと、父をすでに見ているのです。この件は次回またお話しします。

「今から父を知るのです」(7節)という新改訳独自の訳はインスピレーションを与えてくれる言葉です。

 

ヨハネはトマスの良き理解者だと述べましたが、実はもう一人います。主イエスこそ、空気を読まないトマスの最良の理解者でした。トマスの表面的な欠点に左右されず、主イエスはトマスの真剣さや信仰を受け止めておられたのです。トマスの質問が主イエスの本質を明らかにしたのです。

 

 □主イエスは変わり者トマスを愛された

 □イエスは、道、真理、いのちです

 □主イエスを通して、今からもっと父を知るのです

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...