人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:13~14)
友のために命を捨てるという最高度の愛に私たちは目を向けますが、その前に、主イエスが弟子たちを友と呼ばれた事に注目して下さい。十二弟子を友と呼ぶのは福音書では、今日の箇所にしか出てこない内容です。
イエスさまのことを「主」と呼ぶなら、私たちは主に仕える者です。
イエスさまを「救い主」と呼ぶなら、私たちは罪人です。
「先生」と呼ぶなら、私たちは学ぶ者、弟子です。
イエスさまが私たちを「友」と呼んで下さるなら、私たちも主イエスのことを友と呼ぶしかないのです。友情とはそういうものです。
主イエスは、約3年かけて弟子として必要な事を教え終わったところで、あなたたちはわたしの友だと言われました。
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ15:16)
16節では、主イエスが弟子たちを選び、実を結ぶ人生に導き、その実が残ることを願い、そのために、弟子たちの望みがかなうよう助けると約束されました。主イエスの選びは私たちが実を結ぶためだと分かりますが、それだけではないように思います。
出エジプト記33:11によると、神は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語ったと記しています。また、ヤコブ2:23によると、神を信じたゆえにアブラハムは神の友と呼ばれたと書かれています。「わたしが命じることを行う」者(ヨハネ15:14)、つまり、神を愛し神のみこころを理解して行う者を神は神の友と呼ばれています。
聖書全体と今日の箇所の流れを総合すると、主イエスが十二弟子を選ばれた最終目的は、彼らと真の友になることだと理解できます。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ15:12)
主イエスと真の友となった十二弟子は、主イエスが天に上られた後、主イエスとのフレンドシップを身近な仲間に向け、真実な友となることが求められているのです。
友達とのフレンドシップを深める方法は、会って話すことや友達の苦労している時に助けたり励ましたり時には忠告をすることです。友達同士の間には互いに対する尊敬があり、人として好きで信頼できるという思いがあります。友のためなら犠牲をいといません。主にある友なら、祈り合えます。
こうした繋がりを私たちが主イエスと深めていくなら、私たちと主イエスとの友情は強くなります。
また、あなたとあなたの信仰の友にあてはめればフレンドシップは豊かにされます。互いに愛し合うことを親友との心の絆と考える直すと行動しやすいかもしれません。
「友はどんな時にも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。」(箴言17:17)
□主イエスは私を選び友として下さった
□イエスさまを大切な友として生涯を過ごしたい