「わが神、わが神」と二度も続けて神を呼んでいるのは22篇だけです。信仰深い人が深い苦悩に突き落とされたのです。神への信頼が強かったので、今の最悪状態が受け入れられません。「どうして」という言葉は、理由を尋ねながら、抗議をしているのです。
3~8節では、イスラエルの歴史を振り返り、聖書の記述に目を向け、心を立て直そうとしました。先祖は奴隷状態から神に救っていただいた。でも自分は惨めで虫けらのように感じる。信仰さえ敵に笑われてしまった。
9~10節において、自分が生まれた時のことを思い返して信仰を鼓舞しました。「生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。」(10節)私は神に愛されて守られて来た。母の胎内にいた時から、神は私の神であったし今も主は助け出して下さると自分に言い聞かせました。
11~21節では、敵からの攻撃を比喩的に描いています。「多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。」(12、13節)まるで、牛とライオンと野犬の群れに狙われているようでした。肉は裂け、骨は外れ、喉は乾き、瀕死の状態になりました。もうすぐ死ぬと判断され、敵は彼の服を分け合うためのくじ引きをしています。
死を待つばかりとなり、主に叫びました。「主よあなたは離れないでください。私の力よ早く助けに来てください。救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。」(19~20節)
「あなたは私に答えてくださいました」(21節)という短い言葉が、神による救出があったことを教えてくれます。
なぜ私をお見捨てになったのですかという質問に、主はお答えになりませんでした。なぜでしょう。主は彼を見捨てておられなかったのです。
救い出されて、大勢の仲間に迎えられ、率先して神を賛美している様子が22~31節に書かれています。「大いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。」(25節)賛美は神から来るものなのです。
神こそが本当の王なのです。素晴らしい主を世界中の人に知ってほしい。また、後の時代の人々にも知ってもらいたい。そして、神の義を知ってほしいのです。
主イエスは十字架の上で、この22篇の冒頭を引用されました。(マタイ27:46)普段は「父よ」と祈る主イエスとしては、きわめて異例の祈り方でした。
22篇は救い主の苦難を予告した詩篇だったのです。主イエスが十字架にかかった時、人々にののしられ、口が渇き、骨が外れ、兵士がくじ引きをしましたが、22篇の予告通りの事が起きました。
罪人が経験しなければならない神との決定的な分離を私たちの代わりに主は受けて下さいました。罪をあいまいにせずに処罰するという神の正義は主イエスの十字架の死において明らかにされました。22篇の結論が「主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」(31節)となっていたのはそのためなのです。
<今日のまとめ>
□神に捨てられたと思えても、捨てられていない。
□出エジプトの神。胎内にいたときからの神。◎◎◎◎◎
□賛美は神から来る。神を賛美し、神を伝えよう。