2021年10月24日日曜日

詩篇24篇

 神を礼拝しようとする者はどんな備えをしたらよいでしょうか。24篇はそのための大事な原則を教えてくれます。

1、私たちは主のもの

「地とそこに満ちているもの、
 世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。」(1節)
 

 神は全世界と私たちをお造りになりました。すべては主のもの、私たちも主のものです。その上で、神は私たちに100%の自由意志を与えて下さいました。

 これが礼拝者がまず心に刻むべき第一の点です。命の創造者、私を生まれる前から愛して守ってこられた主なる神に感謝と賛美をささげることが礼拝です。

2、きよい手と澄んだ心

 「だれが主の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。手がきよく心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず偽りの誓いをしない人。」(3~4節)

神を礼拝するのにふさわしい人は誰でしょう。クリーン・ハンドとピュア・ハートを持つ人だと言っています。きよい手とは、仕事や毎日の活動で嘘や不正のない正直な実生活を指します。澄んだ心とは、心の中における偽りや不純がない状態をいいます。そういう人は、主からの祝福と義をもらえます。

突き詰めて考えると、誰もが罪に汚れているので聖なる神の前に立てるきよい人は誰もいません。モーセやイザヤも聖なる神の前で自分の汚れを深く認識していました。
 罪と不完全さを認識しつつも、もっと神を知りたい、神に似た者になりたい、神のお役に立ちたい、神のそばにいたい、神に感謝と賛美をささげたいと願う者こそが、「神を求める者たち」「御顔を慕い求める人々」であり、その人たちこそが礼拝者の心を備えた人なのです。

3、門を開けて迎え入れよう

「門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。
  栄光の王が入って来られる。」(7節)

 ダビデが神の箱を都に運び入れた出来事が(第二サムエル6:12~15)詩篇24篇の背景にあると言われています。
 24篇の全体の流れを見ると、7節から10節は突出した印象を与えます。門という建造物をあたかも意志を持つ人のように見立てています。実は、この最後の部分こそが大事なのです。

 私が主のものだと理解し、神の御顔を慕い求める心と態度を持った後、主ご自身に私たちの心の中に来てもらうことが必要なのです。礼拝の本質とは何でしょう。私の心のドアを広く開け、主なる神に心の中心に来て頂くことなのです。

 エルサレムの都よ、主を栄光の王として迎えよ。そこに住むすべての民よ、心のドアを開けて主を受け入れよ。歴史を超えたすべての人よ、心の門を開いて主を迎えよ。

 振り返ると、私たちも主イエスを救い主として信じた時、私たちの心の門を開いて主を迎えました。(黙示録3:20)そしてクリスチャンは、生涯、主イエスを心の中心に置き続けながら、主と共に生きる者たちなのです。私たちの内に住んで下さる主イエスこそが、私たちを日々に変え、きよめ、キリストの姿にして下さるのです。

 主イエスが再臨される時は、24篇の言葉が完全に成就し、栄光の王をお迎えする日がきます。

□私たちは主のものです。
□きよい手と澄んだ心をもって主を礼拝しよう。

□栄光の王を私の心に迎え、生涯ずっと共に歩みましょう。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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