けれども後半の7節から14節は、心が崩れて動揺し、捨てないでと助けを求めています。「見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神よ。」(9節)
それで27篇は、二つの別な詩篇がつなぎ合わされたように見えます。でも、これが人間のありのままの姿なのです。
前半から見て行きましょう。私を殺害するための戦争が起き、敵が陣営を張っても、私は動じないとダビデは力強く述べました。主が私の光であり、私の救いであることを知っていたので恐れなかったのです。
ダビデが最も望んでいたことは何でしょう。主の家に住むことです。
「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。(4節)
人生で一番大事なことは何か、それが分かっている人はぶれません。主イエスをもてなしたマルタは心が分かれて落ち着かず、主イエスに言われてしまいました。「必要なことは一つだけです」と。(ルカ10:42)一方マリアは主イエスのおことばに聞き入っていました。
主を見上げ、神のご性質の素晴らしさに触れた時、私たちは喜びで心が満たされ、魅了され、時を忘れ、心が澄み渡り、力と勇気と愛が内側から溢れてきます。
ダビデは神殿を建設することはできませんでしたが、どんな場所にいてもどんな環境にいても「主の麗しさ」を仰ぎ見ることができた人でした。もう主の家に住んでいたのです。
私たちの礼拝も、神の麗しさを見上げているのです。神の麗しさを体験した人は、神が光であり、神が私の救いだと確信できるので、恐れなく歩めるのです。
ただし、私たちの人生には通常の試練のレベルを超えたとんでもない困難が数回襲ってきます。そんな時は、飛行機が墜落する時のように錐もみ状態で落下し、信仰の確信が吹き飛び、神さまの御顔が見えなくなります。
「どうか御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを怒って押しのけないでください。あなたは私の助けです。」(9節)と叫ぶしかないのです。
たとえ父母が見捨てても見捨てない神(10節)がおられると分かっていても、悩みが深いと御顔が見えなくなります。「あなたに代わって私の心は言います。『わたしの顔を慕い求めよ』と。」(8節)神の御顔を慕い求めることが脱出の道だと知っていても、それができない時もあります。主はいつくしみ深い方なのだと自分に言い聞かせ続けます。(13節)
解決の糸口を失い絶望しそうになった時は、自分の魂に向かって言いましょう。主を待ち望めと。主は私の救いです、必ず主は助けて下さいます。
「待ち望め主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め主を。」(14節)
□主は私の救い、私は恐れない。
□主の麗しさを仰ぎ見る礼拝をしよう
□嵐の日は、主を待ち望もう。