2021年12月27日月曜日

詩篇32篇

 詩篇32篇のテーマは罪の赦しです。

詩篇の序論である第1篇において、罪人の道に立たずに主のみことばを愛す人が「幸い」だと説明されていましたが、罪を犯した後でも「幸い」といえる状態になれるのです。
 悔い改めの詩篇として有名なのは51篇と32篇ですが、罪を悔いて砕かれた姿に焦点を当てたのが51篇、32篇は罪の赦しの素晴らしさを語っています。

 幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。
 幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。(詩篇32:1~2)

冒頭の1~2節が結論です。3~7節でその理由としての個人的経験が語られ、8~11節で人々への呼びかけと励ましが述べられています。

 「昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり」(4節)とあるように、罪を犯した結果、ダビデは身体が不調になるほど苦しみました。罪意識とは、神が私達の上に手を置かれた状態のことなのです。罪を犯した人を見捨てずに、あなたを心配しているよ、立ち戻る道があるよ、と主が声をかけておられるサインなのです。

 私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。
 「私の背きを主に告白しよう」と。

  するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。(5節)

 世間の常識で言うと、罪を犯した事を人に伝えれば、罵倒され、処罰され、絶交され、回復の道は閉ざされます。ダビデは様々な心配を心に抱えていましたが、自分の罪を告白する道を選びました。その結果、罪の赦しを体験をしたのです。

罪の対処法は本来二つしかありません。
 罪を隠すか、主におおってもらうかです。

 ダビデが犯した最も大きな罪はバテ・シェバとの姦淫の罪でした。忠実な部下ウリヤの妻を寝取ったダビデ王は、妊娠の事実をごまかすために彼女の夫を戦地から呼び寄せましたがうまくいかず、ウリヤを最前線に送り出して殺しました。つまり、姦淫、隠匿工作、殺人の罪を重ねたのです。そんな大きな罪も赦されました。

「大水は濁流となっても、彼のところには届きません。あなたは私の隠れ場。」(6~7節)と述べていますが、これは周囲から責められる事があっても主が守ってくださるという意味です。

 罪の赦しを経験したダビデは、世界の人々に語りました。かたくなにならず、あなたの罪を告白するのが最善の道だと勧めました。罪を犯して隠している時は孤立するが、罪を告白した者に対しては「恵みがその人を囲んでいる」(10節)という状態になり、神の愛の中に置かれ、交わりを回復し、本来の喜びを取り戻し、心に影が無くなり「その霊に欺きがない人」(2節)になれるのです。

 1~2節の英語聖書では、罪が赦され(forgiven)、カバーされ(covered)、カウントされない(not count)と訳しています。雪が降ると雑然とした風景が真っ白な雪で覆われるように、罪の行為はもうカウントされません。神による罪の赦しは、私たちが想像するより遥かに完全で大きいものなのです。

 誰かを深く傷つけても、大切なものを壊しても、大きな失敗をしでかしても、破廉恥な行為が明らかになってあなたの評価が地に落ちても、あなたが罪を告白するなら神はあなたの罪を徹底的に赦し、きよめ、愛し、包み、立ち直らせて下さいます。

 幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。

 □一年を振り返り、罪を告白しましょう。
 □誰かの罪をゆるしましょう。

 □あなたの罪は完全に覆われました。あなたは幸いな人です。

2021年12月19日日曜日

闇に輝くクリスマス

 マタイは、クリスマスの記述をする時、主イエスがダビデ王の家系でありユダヤ人の王であることを明らかにしました。ルカは、聖霊によってマリヤが身ごもった事と、預言通りにベツレヘムで生まれた救い主であることを解き明かしました。

ヨハネは、主イエス誕生の出来事を書かずにクリスマスの意味を深く掘り下げました。驚くことに、イエスさまが「生まれた」という表現が一つもありません。それはなぜでしょう。

人が生まれたという時、普通それは命の誕生を意味します。ところが、主イエスの場合は違うのです。はじめからずっとおられたからです。イエスは永遠の神なのです。だから「うまれた」という言葉は厳密には適合しないのです。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
  この方は、初めに神とともにおられた。」(1~2節)

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、
  世はこの方を知らなかった。」(10節)

主イエスは目的をもってこの世に来られました。私たちは、生まれる日時も家族も選ぶことができません。何かの目的を持って生まれた人は一人もいません。ところが、主イエスの場合は違います。この世界と私たちの心にある闇を照らすために来られたのです。永遠の命であるイエスが、私たちに永遠の命を与えるために来られたのです。それは十字架でご自分の命を捨てることを意味しました。

このような意味で「生まれた」という言葉を用いず「来られた」とヨハネは書いたのです。

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(9節)
 「この方はご自分のところに来られたのに、
  ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」(11節)

 「父のみもとから来られたひとり子」(14節)

 主イエスがクリスマスに私たちの所に来て下さったもう一つの理由がありますが、それはイエスさまの本質に関わることでした。

主イエスの本質は「ことば」です。神が私たちのことをどう思っているかを伝える生きた手紙が主イエスなのです。イエスさまの教え、奇跡、生き方、十字架、復活を見れば、神がどんな方かを読み取れるのです。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、
  神を解き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

父なる神はイエスさまを通して私たちと心の交流をされています。私たちは、ことばであるイエスさまを通じて父なる神を知り、イエスさまの名によって祈ることができるのです。

 こんな流行歌がありましたね。彼がバイクのブレーキを5回点灯させると、それはアイシテルの意味。暗い夜道で彼の後ろ姿を見送る彼女は、そのライトの意味を読み取って心を温かくする。
 イエスさまの誕生と生涯と十字架は、父なる神が私たちをアイシテルと伝えている点灯ランプなのです。

年末のあわただしさでゆとりを失い、経済的な乏しさに直面し、体の不調や衰えを嘆き、他人の幸せに目が奪われ、天涯孤独な自分がみじめに思え、罪の記憶で苦しみ、心に闇を抱える人が多くいます。その闇を照らす光として、主イエスはクリスマスに来られたのです。

メリークリスマス。主イエスはあなたを愛し、あなたを照らすいのちの光です。

 □イエスさまは初めからずっとおられた方
 □イエスさまは私たちのために来られた
 □メリークリスマス。主を賛美しましょう

2021年12月12日日曜日

詩篇31篇

 詩篇31篇は、ダビデの心がジェットコースターのように揺れる詩篇です。

 1~4節では、119番に電話しているように取り乱し、「急いで救い出してください」(2節)と叫んでいます。5~8節は少し落ち着いて、「私のたましいの苦しみをご存じです。」(7節)と安堵しています。

 9~13節を読むと、ダビデが急激に悩みに襲われ、自分を失っていることが分かります。最初に心と体の悩みがやって来ました。「私をあわれんでください。主よ。私は苦しんでいるのです。私の目は苦悶で衰え果てました。私のたましいも私のからだも。」(9節)

魂の悩みが深いと体に影響が出るものです。頭痛、胃の痛み、消化不良、発熱、背中や肩の痛みが出たり、持病が再発したりします。体の不調は心の不安を広げます。10節にあるように、ダビデは悲しみ、嘆き、体の衰え、骨の痛みを感じていました。

追い打ちをかけるのが人間関係の葛藤です。「敵対するすべての者から私はそしられました。わけても私の隣人から。知り合いには恐れられ外で私を見る者は私を避けて離れ去ります。」(11節)敵の<すべての者>が悪口を言っているはずはありませんが、心が弱った人は最悪ばかりに目が行きます。親しい友達からも見捨てられ、誰もが私を避けていると感じてしまうのも人間関係に疲れた人の症状です。

そんな状態になると、自分に価値がないと感じます。「死人のように私は人の心から忘れられ壊れた器のようになりました。」(12節)セルフイメージが極端に悪くなり、誰の役にも立っていないと勘違いします。

 心、健康、人間関係、セルフイメージは連動しており、どれか一つの悩みがひどくなると4つ全体に波及します。だとすると、どこか一つが立ち直れば全部が良くなる可能性があります。14節から22節にそのヒントが書いてあります。

「しかし主よ私はあなたに信頼します。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から追い迫る者の手から。」(14~15節)

ダビデは「あなたこそ私の神です」とはっきり告白しました。主への信頼を口に出す。それが悩みに立ち向かう第一歩です。次は、悩みも自分自身も全部主の手に乗せることです。「私の時は御手の中に」あるので、自分のタイミングではなく神の時に任せ、解決方法も神の方法にゆだねるのです。

19節で「あなたのいつくしみ」が大きいことに目を留めています。人間関係で傷つき、自分は価値がないと感じていても、神はそのままの私を愛しておられると気づくと大きな励ましになります。20節では対人関係の悩み、「人のそしり」「舌の争い」から主が守って下さることが分かります。22節では、ぐらぐら心が揺れて神から断ち切られたと勝手に思い込んだ自分を客観視できるようになっています。

最後に、23~24節でダビデは身近な人を励まし、主を愛し心を強くして主を待ち望むようにと応援メッセージを送っています。

□混乱したり安心したり、ぐらつくのが人間です。
 □心、体、人間関係、セルフイメージが人の主な悩みで、相互に連動しています。

 □「主こそ私の神」と告白し、主に任せ、主のいつくしみに目を留めましょう。

2021年12月5日日曜日

詩篇30篇

 死を覚悟したほどの病気が癒され、神に賛美しているのが詩篇30篇です。
 ダビデは、涙が喜びに変えられた出来事に深く感動しました。

「主よ、私はあなたをあがめます。あなたは私を引き上げ私の敵が喜ばないようにされたからです。わが神主よ、私が叫び求めるとあなたは私を癒やしてくださいました。主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。」(1~3節)

 ダビデはつらい状況から自力で脱出できませんでした。引き上げて下さったと表現するのはそのためです。「癒してくださいました」とありますから、とてもひどい病気だったようです。「よみから引き上げ」「穴に下って」とありますから、死にそうな病気、墓穴に埋められる寸前の危篤状態だったのです。

「まことに御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちにある。
 夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(5節)

「御怒り」という表現がありますが、ダビデは何かの大きな罪を犯し、その罪の処罰を主から受けた自覚がありました。(参考箇所:第二サムエル24章10節)

 夜、病気の峠をむかえた人は、衰弱し、弱気になり、闇の中で孤独にさらされ、熱と痛みと不快感と呼吸困難と悪夢でうなされ、永遠に続くような涙の夜を過ごします。外が白みかけ、朝日に気づいた時、涙の夜が去って喜びの朝が来たことを知ります。ダビデはその朝日の輝きを忘れられません。御怒りは短い期間で終わった。主の恵みは生涯変わらずに注がれると確信を強めたのです。

 7~12節は、前半の1~6節を違う角度から言い換え、苦しい最中にどんな祈りをしたかが記録されています。主が御顔を隠された時、ダビデはひどく動揺して助けを求めました。私が死んで墓に葬られても良いことは一つもありません。死んで私が塵になったら主を賛美できませんし、主の素晴らしさを伝える人が一人減ってしまいます。主と取引するような強い言葉でダビデは必至に祈りました。私の祈りを聞いて下さい、憐れんでください、助けて下さいと。

 病状が最悪だった真夜中、ダビデは繰り返し祈っていました。朝方に熱が引き痛みが和らぎ危険が去ったと気づいた時に11節の感想が生まれたのです。

「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。
 私の粗布を解き喜びをまとわせてくださいました。」(11節)

「変えてくださいました」と書いてあるのは、自分で病状を改善することも気分の切り替えもできなかったけれど、神はすべてを良い方向に変えて下さったという意味です。ダビデは主の圧倒的な力に驚き、感謝し、主の御力をほめたたえました。

どんなにひどい嘆きも喜びに変わる。ダビデは自分の経験からそう言えました。これから同じような事態になっても主は助けて下さるという未来に向けた確信を持てました。そして、これは誰にでも起こることだとダビデは伝えたかったのです。

 あなたの涙の夜も喜びの朝に変えられます。

□御怒りは束の間、私たちの命はずっと恩寵の中で守られている
□夕暮れの涙が宿っても、喜びの朝が必ず来る

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...