死を覚悟したほどの病気が癒され、神に賛美しているのが詩篇30篇です。
ダビデは、涙が喜びに変えられた出来事に深く感動しました。
「主よ、私はあなたをあがめます。あなたは私を引き上げ私の敵が喜ばないようにされたからです。わが神主よ、私が叫び求めるとあなたは私を癒やしてくださいました。主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。」(1~3節)
ダビデはつらい状況から自力で脱出できませんでした。引き上げて下さったと表現するのはそのためです。「癒してくださいました」とありますから、とてもひどい病気だったようです。「よみから引き上げ」「穴に下って」とありますから、死にそうな病気、墓穴に埋められる寸前の危篤状態だったのです。
「まことに御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(5節)
「御怒り」という表現がありますが、ダビデは何かの大きな罪を犯し、その罪の処罰を主から受けた自覚がありました。(参考箇所:第二サムエル24章10節)
夜、病気の峠をむかえた人は、衰弱し、弱気になり、闇の中で孤独にさらされ、熱と痛みと不快感と呼吸困難と悪夢でうなされ、永遠に続くような涙の夜を過ごします。外が白みかけ、朝日に気づいた時、涙の夜が去って喜びの朝が来たことを知ります。ダビデはその朝日の輝きを忘れられません。御怒りは短い期間で終わった。主の恵みは生涯変わらずに注がれると確信を強めたのです。
7~12節は、前半の1~6節を違う角度から言い換え、苦しい最中にどんな祈りをしたかが記録されています。主が御顔を隠された時、ダビデはひどく動揺して助けを求めました。私が死んで墓に葬られても良いことは一つもありません。死んで私が塵になったら主を賛美できませんし、主の素晴らしさを伝える人が一人減ってしまいます。主と取引するような強い言葉でダビデは必至に祈りました。私の祈りを聞いて下さい、憐れんでください、助けて下さいと。
病状が最悪だった真夜中、ダビデは繰り返し祈っていました。朝方に熱が引き痛みが和らぎ危険が去ったと気づいた時に11節の感想が生まれたのです。
「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。
私の粗布を解き喜びをまとわせてくださいました。」(11節)
「変えてくださいました」と書いてあるのは、自分で病状を改善することも気分の切り替えもできなかったけれど、神はすべてを良い方向に変えて下さったという意味です。ダビデは主の圧倒的な力に驚き、感謝し、主の御力をほめたたえました。
どんなにひどい嘆きも喜びに変わる。ダビデは自分の経験からそう言えました。これから同じような事態になっても主は助けて下さるという未来に向けた確信を持てました。そして、これは誰にでも起こることだとダビデは伝えたかったのです。
あなたの涙の夜も喜びの朝に変えられます。
□御怒りは束の間、私たちの命はずっと恩寵の中で守られている
□夕暮れの涙が宿っても、喜びの朝が必ず来る