「主よ私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。」(1節)
ダビデの言葉が少しまわりくどいように感じませんか。敵と言わずに「私と争う者」と表現するのは客観的すぎます。なぜ、ストレートにこう祈らないのでしょう。私を強くして敵に勝たせて下さいと。
ダビデは敵からひどい仕打ちを四種類も受けていました。
①<罠をしかけられた> ダビデに落ち度がないのに、だまされ、ひどいダメージを受けました。「ゆえもなく彼らは隠しました。網を張った穴を私のために。ゆえもなくそれを掘りました。私のたましいのために。」(7節)
②<嘘の証言をされた> 敵はダビデの悪い噂を立て、ダビデの評価を落としました。「悪意のある証人どもが立ち私が知らないことを私に問います。」(11節)
③<恩を仇で返された> 今では敵となった相手ですが、昔、ダビデが心配したり断食したりお見舞をした間柄でした。でもすべては水の泡。「彼らは悪をもって善に報い私のたましいは見捨てられています。」(12節)「しかし私は彼らが病のとき粗布をまといました。私は断食してたましいを苦しめ私の祈りは胸の中を行き来していました。」(13節)
④<嘲笑された> いじめられて一番つらいのは、笑いものにされることです。ダビデは、敵に笑われました。「彼らは私に向かって大きく口を開け『あははこの目で見たぞ』と言います。」(21節)
ダビデは敵を第三者のように見立て「私と争う者」と位置づけました。その上で、自分で敵と戦わないことを決めました。人は、裏切られた時、感情的になり何倍も復讐をするものです。結局は悪者と同じ人間に成り下がり、後味の悪い経験をします。だから、解決は主の義にお任せしたらよいのです。
「あなたの義にしたがって私のためにさばきを行ってください。主よわが神よ、彼らを私のことで喜ばせないでください。」(24節)
預言者エレミヤは南王国ユダの罪を指摘し、悔い改めなければ滅びが来ると伝えましたが、それを聞いた人々が逆恨みしてエレミヤを殺そうとしました。以下の言葉がエレミヤの口から出ましたが、敵への態度が詩篇35篇と良く似ています。
「主よ、私に耳を傾け、私と争う者の声を聞いてください。善に悪をもって報いてよいでしょうか。まことに彼らは、私のいのちを取ろうとして穴を掘りました。」(エレミヤ書18:19~20)
パウロも35篇と同じ考え方をしています。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい、こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。」(ローマ12:19)
復讐すれば自己嫌悪に陥りますが、自分で戦わないなら主への信頼が生まれ、ダビデのように自然に賛美が生まれます。
「主よだれがあなたのようでしょう。苦しむ者をより強い者から救い、苦しむ者、貧しい者を略奪者から救う方。」(10節)
□卑劣な敵に攻撃されたら、主に戦ってもらう
□復讐は義なる神にお任せし、主を待ち望み、主を賛美する