2022年2月27日日曜日

詩篇41篇

 詩篇の第一巻は41篇で終了し、神をたたえて「アーメン、アーメン」で終わっています。幸いな人はどんな人か、という詩篇の中心テーマが今回も語られています。「弱っている者に心を配る人」が幸いな人なのです。

1、弱っている者に心を配る人

幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。
 わざわいの日に主はその人を助け出される。(1節)

4節以下で分かるように、ダビデは病気で苦しんでいました。自分を看病して支えてくれる人に感謝の気持ちが生まれたのでしょう。だからダビデは、「弱っている者に心を配る人」のために祈ったのです。また同時に、彼らこそが幸いな人であり、主が必ず彼らを守って下さるとの確信を持ちました。

あなたも今、誰かを助けているかもしれません。赤ちゃんの世話、受験生やスポーツ選手への応援、友達を励まし、精神的弱さを持つ人をサポートし、病人の世話を続け、身体に障がいを持つ人を助け、お年寄りの介護を引き受けている人がいます。誰かを助けているあなたは、幸いな人なのです。あなたの災いの日に主は必ず助けて下さいます。

そしてあなたは、いつも病人のそばにおられた主イエスの姿にいつの間にか似て来るのです。

2、病の床で苦しむダビデ

 私は申し上げます。「主よあわれんでください。
 私のたましいを癒やしてください。

 私はあなたの前に罪ある者ですから。」(4節)

 ダビデは弱っていました。病気で苦しみ、魂が病み、自分の犯した罪で苦しんでいました。その上、お見舞いに来た人の一部は、ダビデに回復の見込みは無く死ぬのは間近だと悪い噂を流しました。ダビデは親友にまで裏切られたのです。

息子アブシャロムによるクーデターが起きた時には多くの者がアブシャロムに付き、側近のアヒトフェルまでが裏切り、ダビデは苦悩しました。(第二サムエル15章)詩篇41篇の背景にはその種の出来事があったのでしょう。

主イエスは十字架を目前にして、詩篇41篇9節の「私が信頼した親しい友が私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます。」を引用され(ヨハネ13:18)、ダビデに起きたことがご自分にも成就したと言われました。私たちが経験する辛い出来事を主イエスもたどって下さるのです。


3、立ち上がらせて下さい

 しかし主よ。あなたは私をあわれみ立ち上がらせてください。
 そうすれば彼らに報いを返せます。(10節)

 人から見れば回復困難の病状でした。自力では立ち上がれないとダビデは悟ったので「立ち上がらせてください」(10節)と主にすがりました。この言葉は英語の聖書(NIV)では、raise me upと訳しています。有名な歌のフレーズにありますね。

ダビデが願ったのは、いつまでも主の前に立ち続けることでした。詩篇23篇6節の「私はいつまでも主の家に住まいます」と同じ心です。私はここにいます、あなたのみこころを行うことを喜びとしていますという、詩篇40:7~8と同じ姿勢が貫かれているのです。弱っている者に心を配る者は幸いです。そしてもう一つ、立ち上がらせて下さいと主に信頼する人もまた幸いな人なのです。

 □弱っている者に心を配る人は幸いです
□主は必ず、あなたを立ち上がらせて下さる

2022年2月20日日曜日

詩40編

 詩篇は「幸いなことよ」という言葉で始まり(詩篇1:1、2:12)、詩篇第一巻の最後を飾る40篇と41篇は「幸いなことよ」(詩篇40:4、41:1)で終わります。

 では、幸いな人とはどんな人なのでしょう。詩篇40篇によると、主に助けられたと気づく人、「私はここにいます」と言える人、主への信頼を止めない人のことです。

1、主に助けられたと気づく人(1~6節)

 ダビデは、「滅びの穴」や「泥沼」のような困難から自力で脱出できませんでした。主がそこから引き上げて下さいました。思わず賛美が出て来ましたが、その新しい歌も主が私の口に授けて下さったものだと気づきました。大切な真理を悟ることができたのも、主がダビデの耳を開いて下さったからだと分かりました。

 「幸いなことよ、主に信頼を置き」(4節)

 主に助けて頂いた、と気づく人は幸いなのです。

2、「私はここにいます」と主に言える人(7~10節)

そのとき私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」(7~8節)

 神が求めておられるのは大量のいけにえではない(6節。参考:ミカ書6:6~8)とダビデは理解していました。主が求めているのは私たちの自発的な献身姿勢なのです。英語聖書で7節は、「私はここにいます。私は来ました」と訳しています。少年サムエルが主の前に出た時の応答に良く似ています。(第一サムエル3:8)私をお使い下さいという態度です。

巻物とは律法を意味すると思われます。律法には神が私たちに望んでいる事柄、神のみこころが書いてあります。心を尽くして神を愛すという教えも、自分のように隣人を愛すという命令も律法の書に書かれてあります。(申命記6:5、レビ記19:18)ダビデは、私がすべき事が書いてあると理解したのです。その事を言い換えると、「あなたのみおしえは私の心のうちにあります」となるのです。

ローマ人への手紙12:1に、自分を主にささげることが真のいけにえであり、神のみこころを見分けて行うことが勘所だと書きましたが、まさにそれはダビデが理解し実行していた事だったのです。ダビデはみこころを行うことを喜んでいました。あなたはどうでしょう。

2、主への信頼を止めない人(11~17節)

 12節にあるように、人生においては二つの苦しみを避けられません。数多くのわざわいや試練がやって来る事と、自分の罪や咎で苦しむ事です。次から次へと戦いは襲ってきます。そんな時でも、主への信頼を止めてはいけません。神の助けを求めましょう。「主は大いなる方」(16節)と言える時が必ず来ます。

 神の義、神の恵みや愛、主のあわれみ、主の真実、主の助け。それは決してすたれることがないのです。

「主よみこころによって私を救い出してください。主よ、急いで私を助けてください。」(13節)

 □今、私はここに来ています。

 □主のみこころを行うことを喜びとして生きる

2022年2月13日日曜日

詩篇39篇

 39篇は「伝道者の書」を彷彿させます。詩篇の背景は38篇と同じ状況と思われ、罪の苦しさと病の辛さのゆえに哲学的で少し悲観的な雰囲気になっています。 

1、言えない苦しみ(1~3節)

 ダビデは悪者に苦しめられていました。反論すると悪口に拍車がかかり、自分が罪を犯す恐れがあったのでぐっとこらえて口を閉じました。人生には辛いことが多いとダビデは感じていました。

2、むなしい(4~6節)

 「主よお知らせください。私の終わり私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。」(4節)

ダビデは辛い人生の終わりに目を向けました。何歳で、どんな形で死ぬのだろう。主は教えて下さらないと分かっていながら問いました。そうすれば覚悟ができるような気がしました。

あなたは何歳で死にたいですか。どんな死に方がいいですか。それが分かったら今の生き方が変わるでしょうか。今晩死ぬとしたら、やり残した事がありますか。

「手幅」(5節)とは手のひらの親指を除いた幅のことで、人生は手幅ほどに短く空しいとダビデは悟りました。お金や財産を集めても死ねば誰のものになるか分かりません。

3、懲らしめを受け入れる(8~11節)

人生が辛いのは、罪を犯してしまい、主の懲らしめを受けるからです。ダビデは自分の罪深さを自覚していましたから、主からの懲らしめを受け入れ、病気の苦しさに耐えながら主からの解決とあわれみを祈り求めました。

4、旅人(12~13節)

「主よ私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人すべての先祖のように寄留の者なのです。」(12節)

ダビデは、聞いてください、助けて下さい、朗らかにして下さいと祈りました。

ダビデは30歳で王になり40年間王でした。(第二サムエル5:4)お金もあり、長寿に恵まれ、尊敬され、たくさんの友人もいました。けれども、自分の本質は旅人に過ぎないと感じました。旅が楽しいのは帰る家があるからです。帰る家を失い、旅から旅へと流れて行くなら難民です、寄留者です。ダビデは自分のはかない立場に気づきました。

「主よ今、私は何を待ち望みましょう。私の望みそれはあなたです。」(7節)

人生は辛く、短く、空しく、罪深いとダビデは感じました。でも、愛に満ちた神を待ち望むことにより希望や夢や力が湧いてきます。永遠の神につながっているなら、はかなさや短さではなく、生きがいや人生の価値の側面に目が向かいます。神を待ち望み、神と出会い、神の言葉を聞き、神と交わるなら、同じ旅人であっても「あなたとともにいる旅人」(12節)という自覚が生まれ、一人ではないという力強い励ましが与えられます。

「私が朗らかになれるようにしてください。」(13節)

→あなたの番です

 □人生は、辛く、空しく、罪深く、はかなく見える
 □私たちの望みは、主ご自身

2022年2月6日日曜日

詩篇38篇

 詩篇38篇は、罪がもたらす悲惨な結果と、その後の回復プロセスについて語っています。

1、罪は何をもたらすか?

 ①心と体にダメージを与える
 「あなたの矢が私に突き刺さり御手が私に激しく下りました。」(2節)

 罪を犯した後にやって来る罪意識とは不思議なものです。誰にも知られていないのに心が痛み不安になります。神が放った矢が罪意識なのだとダビデは気がづきました。矢は心を射抜くだけでなく、身体にまで影響を与え病気になることもあります。背負いきれない重荷となるのは、神の怒りを知らせる警告だからです。

 ②罪が悪臭を放つ
 「私の傷は悪臭を放って腐り果てました。それは私の愚かさのためです。」(5節)

 罪が解決されずに放置されると、傷が膿んで悪臭を放ちます。やがて本人だけでなく周囲も分かってきます。当人は平常心を失い、うなだれ、嘆き、落ち込みます。

 ③愛する人が離れて行く
 「愛する者や私の友も私の病を避けて立ち、近親の者でさえ遠く離れて立っています。」(11節)

 罪を知った愛する人や友人たちはあなたを嫌い離れていきます。伝染病のために隔離された状態に似ています。罪はあなたの欲望を一時的に満たしたとしても、必ず孤独を連れて来るのです。

 

2、罪からの回復のプロセス

①願いが純化される
 「主よ私の願いはすべてあなたの御前にあり」(9節)

 罪意識で苦しむと、何が本当に大切だったのかが分かります。罪を犯して何かを手に入れても空しかった。不正や暴力や邪悪な事をして誰かを傷つけても本当の解決にならなかった。ダビデは病気になっていたようですが、体の癒しすら求めていません。「私の罪のゆえ」(3節)「私の愚かさのため」(5節)と自分が原因だと分かっているので、主からの処罰として耐えていたのでしょう。ダビデは、自分の本当の願いが見えてきました。かけがえのない幸せを失って初めて気づいたのです。隠し事のない生活。ささやかな幸せ。当たりまえの日々。罪が赦されていること。神との穏やかな関係。愛する人との平和な交流などがどれほど大事かが分かったのです。

 ②主だけを待ち望む
 「まことに主よあなたを私は待ち望んでいます。」(15節) 

愛する人が離れ去ったり大衆に見捨てられたら、名誉回復と人々が戻って来ることを願うものです。けれども、ダビデは主との関係修復が最優先だと気づきました。

 ③自分の咎を言い表す
 「私は自分の咎を言い表します。」(18節)

私たちが罪を犯した後「私は悪くない」と何度も自分に言い聞かせませます。悪いのは自分でなく他人だ、社会だと言ったりします。罪からの回復で最も重要なポイントは、「私は悪くない」から「私が悪い」へと態度を変えることです。自分から言いましょう。犯した咎を神の前に言い表しましょう。

人々はあなたの罪のほんの一部を知っただけで去って行きますが、神はあなたの罪の全貌を知っても見捨てない方です。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヘブル13:5)

 □罪を犯すと神の矢が私を射抜き心と体を苦しめる
 □本当の願いを結晶化させ、主だけを待ち望もう

 □自分の咎を言い表そう

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...