すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。(エペソ1:4)
神に選ばれた驚き
パウロは、神が下さった霊的祝福の中からまず「選び」を第一に取り上げました。
おそらくパウロにとって神に選ばれたという事実は、最も驚くべき恵みなのです。クリスチャンを迫害し殺害した私を神は選んで下さった。それは感謝してもしきれない神からの祝福だったのです。
神が、いつ、なぜ、どのように、パウロを選んで下さったのでしょう。それは、人知をはるかに超えており、世界の基の置かれる前からの神の深いお考えだったのでしょう。パウロの選びも私たちの選びも主イエスのご愛や十字架なしにはあり得ないことでした。
私たちも人生で「選び」を経験してきました。思い出して下さい、選ばれた時の喜びを。私たちが学校、職場、結婚相手を選んだとしても、相手が選び返してくれないなら一方通行で終わりでした。選びという出来事は、私たちを謙虚にさせるのです。選ばれた時の驚きや不思議な感覚を忘れないで下さい。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び」(ヨハネ15:16)、「わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。」(ヨハネ13:18)
神がイスラエルの民を選んだ理由は、優れた民だから、数が多いから、見込みがあるから、という理由ではありません。
「主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。………あらゆる民の中から選ばれた。」(申命記10:15)「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民より数が多かったからではない。事実、あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。」(申命記7:6~7)
神は、ありのままのイスラエルの民を、また、ありのままの私たちを受け入れ、愛し、良きものを与えたいと願って選ばれたのです。
ルカ19章に取税人ザアカイの回心の出来事が記録されています。ザアカイは木の上からイエスさまをのぞきましたが、主イエスはザアカイを選び、彼の家に泊まりに行くとお決めになりました。それを見て人々は「あの人は罪人のところに行って客となった。」(19:7)と言いました。評判の悪い人物を選ぶなら、選んだ人の評価も落ちます。主イエスはそれを承知でザアカイを選んだのです。
神が私たちを選んだことにも、同じことが言えます。それほどの覚悟で神は罪人の私たちを選んでくれたのです。
選ばれたのはきよく歩むため
神の選びには方向性がありました。選ばれた人を聖なる者にするという未来図があったのです。
きよい者と言っても、悪事に手は染めないだけで冷たい傍観者のような人が増えても役に立ちません。選ばれた人が、キリストに似た者になり、罪なき歩みしつつ、愛と正義を実行できる人になることを期待しておられるのです。
旧約聖書においては、神はイスラエルの民にこう言われました。「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あまたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」(レビ記11:45)この聖句を受けてペテロは、「むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あながたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」(第一ペテロ1:15)と述べました。私たちが召されたことを選ばれた事と言い直すとすっきり理解できます。
パウロはエペソ人の手紙の後半で、今日の聖句と同じ趣旨を教会単位として広げ、「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:27)と述べています。
愛を持って私たちが選ばれたのは、誰かを選んで愛を注ぐため。選ばれたのは、キリストに似た者としてきよく歩むためです。
□選ばれた事実に驚き、謙虚に生きよう□選ばれた者は主イエスのように歩もう