2022年3月27日日曜日

エペソ1:4

 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。(エペソ1:4) 


神に選ばれた驚き

 パウロは、神が下さった霊的祝福の中からまず「選び」を第一に取り上げました。
 おそらくパウロにとって神に選ばれたという事実は、最も驚くべき恵みなのです。クリスチャンを迫害し殺害した私を神は選んで下さった。それは感謝してもしきれない神からの祝福だったのです。

神が、いつ、なぜ、どのように、パウロを選んで下さったのでしょう。それは、人知をはるかに超えており、世界の基の置かれる前からの神の深いお考えだったのでしょう。パウロの選びも私たちの選びも主イエスのご愛や十字架なしにはあり得ないことでした。

私たちも人生で「選び」を経験してきました。思い出して下さい、選ばれた時の喜びを。私たちが学校、職場、結婚相手を選んだとしても、相手が選び返してくれないなら一方通行で終わりでした。選びという出来事は、私たちを謙虚にさせるのです。選ばれた時の驚きや不思議な感覚を忘れないで下さい。

 「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び」(ヨハネ15:16)、「わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。」(ヨハネ13:18) 

 神がイスラエルの民を選んだ理由は、優れた民だから、数が多いから、見込みがあるから、という理由ではありません。
 「主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。………あらゆる民の中から選ばれた。」(申命記10:15)「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民より数が多かったからではない。事実、あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。」(申命記7:6~7)

神は、ありのままのイスラエルの民を、また、ありのままの私たちを受け入れ、愛し、良きものを与えたいと願って選ばれたのです。

ルカ19章に取税人ザアカイの回心の出来事が記録されています。ザアカイは木の上からイエスさまをのぞきましたが、主イエスはザアカイを選び、彼の家に泊まりに行くとお決めになりました。それを見て人々は「あの人は罪人のところに行って客となった。」(19:7)と言いました。評判の悪い人物を選ぶなら、選んだ人の評価も落ちます。主イエスはそれを承知でザアカイを選んだのです。

神が私たちを選んだことにも、同じことが言えます。それほどの覚悟で神は罪人の私たちを選んでくれたのです。

 

選ばれたのはきよく歩むため

神の選びには方向性がありました。選ばれた人を聖なる者にするという未来図があったのです。

きよい者と言っても、悪事に手は染めないだけで冷たい傍観者のような人が増えても役に立ちません。選ばれた人が、キリストに似た者になり、罪なき歩みしつつ、愛と正義を実行できる人になることを期待しておられるのです。

旧約聖書においては、神はイスラエルの民にこう言われました。「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あまたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」(レビ記11:45)この聖句を受けてペテロは、「むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あながたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」(第一ペテロ1:15)と述べました。私たちが召されたことを選ばれた事と言い直すとすっきり理解できます。

パウロはエペソ人の手紙の後半で、今日の聖句と同じ趣旨を教会単位として広げ、「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:27)と述べています。

愛を持って私たちが選ばれたのは、誰かを選んで愛を注ぐため。選ばれたのは、キリストに似た者としてきよく歩むためです。

 □選ばれた事実に驚き、謙虚に生きよう
 □選ばれた者は主イエスのように歩もう

2022年3月20日日曜日

エペソ1:3

 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(エペソ1:3)

 神への壮大な賛美の言葉が始まります。3~14節の原文は一つの文章で切れ目がありません。神をほめたたえると3節で述べた後も、6節、12節、14節でも「ほめたたえる」という言葉を繰り返しています。あふれるばかりの祝福を注いで下さった三位一体をたたえて礼拝をささげています。霊的祝福が具体的にどんなものかは4~14節で語られます。 


1、主イエスの父

 「父なる神」と言わずに「私たちの主イエス・キリストの父である神」と言っています。なぜでしょう。神の本当のお姿を私たちに解き明かされたのがイエスさまだからです。

 神は確かに偉大できよく完全なお方だけれど、恐ろしい方ではない、遠いお方ではない、わたしの父だとイエスさまは教えて下さいました。主イエスは、「わたしの父の家」「わたしの父のみこころ」などと福音書で35回も「わたしの父」と言われています。

律法学者はこの主イエスの言葉を聞いて冒涜だと激怒しました。

「アバ、父よ」(マルコ14:36)と幼児語で親しく呼びかけたこともありました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方」(ヨハネ20:17)と言われ、イエスさまの父を私たち人間の父と呼んでよいのだと教えて下さいました。

 主イエスはたとえ話を使って、神が愛情深い父なのだと教えて下さいました。財産を使い果たし裸足で帰って来た放蕩息子を見つけて走り寄り、抱きしめた父(ルカ15:20)こそがまことの神だと示して下さったのです。

パウロは、主イエスの父を自分の父として礼拝し、心をこめて賛美しました。それは、主イエスが教えて下さった「主の祈り」の趣旨に沿ったことです。まず最初に父があがめられるように、父なる神の御名が聖なるものとされるよう祈りなさいと主イエスは教えて下さいました。

 私たちもパウロをまねて、私たちの主イエス・キリストの父なる神さまと呼びかけてみましょう。主イエスが親しみを感じておられた父なる神が、今、私の父となって下さった光栄をかみしめることができます。

 

2、祝福の神

聖書の神は、ひとことでいえば、祝福の神です。
 私たちに喜んで良きものを与えたいと神は願っておられるのです。

「天上にあるすべての霊的祝福」とありますが、天にあるとは神が持っておられると考えるとよいでしょう。祝福とは、人に分け与えることのできる最良のもので、人が最も必要としているものです。聖書全体では物質的祝福と霊的祝福の両方が語られています。

神は世界を創造されるとすぐに被造物と人間を祝福されました。(創世記1:22、28)子供が生まれることも、家畜が増えることも、穏やかで平和な日々も、健康や長寿も神が下さった祝福なのです。神はアブラハムを祝福し、その子孫、また地上のすべての部族に及ぶ祝福を約束されました。(創世記12:2~3)。

「主は私たちをみこころに留め、祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も大いなる者も。」(詩篇115:12~13)

新約聖書にも祝福の記述がたくさんあります。主イエスは子供たちを祝福されました。(マルコ10:16)5つのパンと二匹の魚を祝福して(マルコ6:41)人々に配られました。復活後に弟子たちと別れる時、「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。」(ルカ24:50~51)という姿は印象的です。

「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(第一ペテロ3:9)とありますが、その通りなのです。私たちは神からの祝福をしっかりと受け止め、味わい、喜び、神に感謝をお返しすべきなのです。

 「ほめたたえられますように」、「霊的祝福」、「祝福してくださいました」という言葉があります。この三つは原語では同じ種類の言葉で、ギリシア語でユーロギアといいます。パウロは意図的に同じ言葉を使って強調しました。ユーロギアは、神から人に向けられた時は「祝福」になり、人から神に向けた時は「賛美」と訳されています。

 神は喜びを持って私たちに祝福を与えて下さいました。人は喜びを持って神に感謝をささげます。ここに喜びのコミュニケーションが生まれます。私たちと私たちの父との交わりが太くされ、生き生きしたものになり、神と共にいる幸いを体感できるのです。

 □主イエスの父なる神は、私のお父さんです
□私たちは、祝福をいっぱいもらっています

□賛美して、きちんとお礼をしよう

2022年3月13日日曜日

エペソ1:2

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
 恵みと平安があなたがたにありますように。(エペソ1:2)
 

 
相手の幸せを願う手紙

当時の手紙の書式は、差出人の名を書き、宛先を書いたら、ギリシア語でカイレイン(挨拶)と書くことになっていました。日本でも「拝啓」と書きますが形式的なものですね。パウロは、通常の形式を廃して、カイレインではなくカリス(恵み)と書きました。

さらにエイレンエー(平安)も加えています。ヘブル語ならヘセドとシャロームになります。パウロは彼の手紙全部に同じ挨拶文を用いています。(ただし、愛弟子テモテに対してだけ「あわれみ」が付け加えられています)

パウロが相手の幸せを願って手紙を書いたことが挨拶文からも分かります。あなたも手紙やEメールを書く時、その人の幸せを願い、恵みと平安を祈ってから書いて下さい。詩篇41:1に「幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は」とありましたが、相手の幸せを願って手紙を書く人は幸いな人だと私は思います。


恵み

パウロは律法学者として旧約聖書に精通していたので、父なる神からの恵みがどれほど素晴らしいものか知っていたはずです。

 詩篇23:6には「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう」と書かれています。詩篇32:10では「主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる」、詩篇36:10でも「注いでください、あなたの恵みを、あなたを知る者に」とあります。すべての人は、父なる神から注がれる恵みが必要です。

今日の聖句を注意深く読んでみましょう。父なる神から恵みがあるようにではなく、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」の恵みとなっています。

 パウロが現役の律法学者だった頃、父なる神と誰かを同じレベルで並べて書くことは絶対にしませんでした。それは神への冒涜になるからです。けれども、復活されたイエスと出会ってからは、パウロはイエスさまが神であると知り、自分の主として仕えるようになりました。

パウロは、旧約聖書に書かれていた父なる神からの恵みを、主イエスと出会ってから実体験したのです。自分のような人殺し、罪人の頭、迫害者に対して主イエスは声をかけて下さった。私を愛し、赦し、使徒として遣わして下さった。驚くばかりの恵みを受けたのです。受けるに値しない者への過分な祝福を実際に受け取ったのです。だから、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」の恵みがあるようにと祈っているのです。

律法学者当時のパウロなら、外国人であるエペソ人と自分を「私たち」とくくることは絶対にしません。異邦人は宗教的に汚れていると考えていたからです。けれども今は、同じ父を持つ子供同士、家族の一員として親しみを込めて「私たち」と言っています。神の恵みを知った人は心が広げられ、今まで嫌っていた人でさえ兄弟と呼べるのです。

 

平安

詩篇を読むと、戦いや悩みの最中に神が穏やかな心を与えて下さることに気づきます。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、あなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)、「私は平安のうちに言った。『私は決して揺るがされない』」(詩篇30:6)。パウロは父なる神が下さる平安の意味を知っていました。

パウロは、実体験としても主イエスの平安を経験しました。コリントで困難に出会った夜(使徒18:9~10)、エルサレムで不利な裁判を受けた夜の牢獄で(使徒23:11)、主イエスに励まして頂き、平安に包まれました。「わたしはあなたがたに平安を残します」(ヨハネ14:27)と言われた主イエスの約束通りの平安でした。

あなたの上に父なる神と主イエス・キリストからの恵みがありますように。その恵みを周囲の人にも分けることができますように。

特に、心配ごとや困難の中にいる人に父なる神と主イエス・キリストから平安がありますように。

 □神と主イエスから、恵みと平安があるように

 □恵みを受けて、心が広げられますように

 □戦争と悲嘆と困難の場に主の平安があるように

2022年3月6日日曜日

エペソ1:1

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、
キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
(エペソ1:1)

 

 手紙の書き出しは今も昔も同じで、差出人が誰か、受取人が誰かを書くものです。パウロからエペソ教会へ。本来はそれで十分です。ところがパウロは、自分が誰か、受取人が誰かを独特のタッチで説明しました。

 パウロの名前についてひとこと説明しておきます。サウロは彼のヘブル名ですが、使徒13:9では「別名パウロ」と書かれています。第一回伝道旅行からはパウロとして表記されています。

 パウロは神のみこころによって使徒とされた事を自覚していました。また、手紙の受取人にも、使徒からの手紙として読んでほしいと願っていました。使徒という言葉は、使命を与えられ遣わされた者を意味します。主イエスはそうした目的をもって十二弟子を選び「使徒」と名付けられたのです。(マルコ3:14)

 ところでパウロは、自分が「使徒と呼ばれるに値しない者です」(第一コリント15:9)と本音をもらし、自分は「罪人のかしら」(第一テモテ1:15)であると生涯にわたり意識していました。神のみこころによって使徒とされた奇跡と感激と覚悟を忘れていないのです。

  パウロはタルソで生まれたベニヤミン族に属するユダヤ人で、律法を厳格に守るパリサイ派でクリスチャン迫害の中心人物でした。(使徒9:1~2)ところがダマスコ途上で復活の主イエスに出会い回心しました。

 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と主イエスに言われてサウロは混乱して尋ねました。「主よ、あなたはどなたですか」(使徒9:4~5)サウロのすべての固定概念が崩れ去り、よみがえられた主イエスの確実性に気づき、主イエスを信じ従うことを決めました。

 ダマスコ在住のクリスチャン、アナニアはサウロを訪ねて主イエスからの使命を伝えるように言われました。サウロは主イエスの名を異邦人に伝える「選びの器」(使徒9:15)として召された人物で、いわば13番目の使徒になったのです。

 アナニアはサウロと初めて出会った瞬間、「兄弟サウロ」と親しく呼びかけました。主イエスと同じ視線にならなければ決して言えない言葉です。

 パウロはエペソのクリスチャンを手紙の冒頭で「聖徒」と呼びました。聖徒とはマザーテレサのような偉業を成し遂げた人のことではなく、キリストの十字架によって罪赦され、きよめられた人、普通のクリスチャンを指す呼び名なのです。アナニアもエルサレムのクリスチャンを「聖徒」(使徒9:13)と呼んでいます。キリストのまなざしを通して私たちの仲間を見ると聖徒であることに気づくのです。

 

 自分は誰なのか。
 私のアイデンティティーは何か。中学生や高校生は真剣に考え、青年たちも自分探しをし、ある人は仕事を止めて海外留学して自分を見つめます。子育てに忙殺され日々の暮らしに疲れ切った主婦も私は誰なのだろうと考えます。会社を退職して時間を持て余して私は誰だろうと考えます。どうしたら自分を見つけることができるのでしょう。

 神を見上げる時に本来の自分が見えてきます。神との関係がすっきりすると自分は自分で良いのだと納得できます。人生のX軸とY軸の原点を神として認識しましょう。神が私に望んでおられることを祈りながら理解しましょう。そうすれば自分の位置が分かります。

 あなたもパウロのように自己紹介することができます。どんな過去があっても、どんな弱さがあっても、あなたは神に愛されています。罪赦されて聖徒とされています。忠実な者と認められています。主から使命を頂いています。これから新しい方向性を示されるかもしれません。

 そんなふうに自分を認識できると、周囲にいる聖徒たちへのまなざしが優しくなります。この人たちも神の愛された人々、神のために歩む人々だと思えるのです。

□あなたは誰ですか?
□神の眼差しで自分を見ると私の姿が見えて来る

□キリストの目で周囲の人を見てみよう

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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