2022年4月24日日曜日

エペソ1:8~9

この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって
私たちの上にあふれさせ、

みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

(エペソ1:8~9)

 エペソ人への手紙1章は、どの部分を切っても<神は素晴らしい>という賛美の言葉に行き着きます。今日の箇所では、神は気前の良い方であり知恵の深い方だという事が分かります。

1、恵みをあふれさせ

 7節にあるように、神は、御子の血によって贖いを完成され、私たちの罪を赦して下さいました。それは神の豊かな恵みによる事でした。何かを販売する時に、期間限定とか、数量に限りがあると言いますが、神はケチなお方ではありません。神が与える時は、あふれるほど与えて下さるのです。

パウロはクリスチャンに暴力を振るい、多くの人を殺害した過去がありました。神はその罪を赦して大きな恵みをあふれるほどに注いで下さいました。その経験を以下のように述べました。

「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。」(第一テモテ1:14)

2、奥義

 奥義とは、長い期間隠されて来た神の救いのご計画のことです。神の子がクリスマスに人となって生まれること、主イエスが私たちの罪を背負って十字架で死なれること、死んだ後によみがえること、ユダヤ人だけでなく異邦人も救われ共同相続人になることなどが、旧約聖書でわずかに予告されていましたが、全体像は隠されてきました。奥義だったのです。

ヘブル書1章にあるように、神はその時代ごとに徐々に救いのご計画の輪郭を明らかにされ、主イエスの出現によって救いの全体像が明らかになりました。神は、神の心の中でお考えになっていた事まで私たちに知らせて下さったのです。

「すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:26)

3、知恵の深さ

 神のひとり子の命に代えて私たちを救う神のご計画。これは誰も思いもつかない方法でした。神の知恵の深さに驚くばかりです。神の知恵は人知で測りがたいほど深いものですが、同時に、神の知恵には温かさがあります。神の優しさに包まれた神の知恵は、私たちの手元に届く時にはあふれる恵みとなり私たちを喜びで包んでくれます。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。」(ローマ11:33)

 神の奥義は長い期間隠されてきて、クリスマスや十字架と復活によって明らかにされました。私たちの人生という限られた期間でも、同じような事が起きます。試練の時に私たちは苦しみ、神のみこころが分からない時期を過ごします。やがて神の深い知恵に気づき、神の豊かな恵みを実感して主を賛美する日が来ます。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書3:1)
 「天が地より高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

 <祈り>あふれるばかりに注がれている神の恵みを感謝します。神の知恵は深く、最善です。試練の時に、神よ、あなたのお考えを理解できずに苦しむこともあります。そんな時は、あなたの愛と恵みが溢れるほど注がれていることに目を向けます。どんな時でも、先が見えない時でも、神の最善の知恵に守られていることを信じます。

 □神はあふれるほどに恵みを注がれる方
 □神の知恵は深く、温かい

2022年4月17日日曜日

エペソ1:7

   このキリストにあって、私たちはその血による贖い、
 背きの罪の赦しを受けています。

 これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)

1、現在形の霊的祝福

 父なる神は、はるか昔、私たちを選び、子にしようとあらかじめ定められました。3節から6節にわたってパウロはいわば<過去形の霊的祝福>について述べてきました。今日の7節は、それと比較するなら<現在形の霊的祝福>と呼ぶことができます。

 「受けています」という言葉はギリシア語ではエコー、持つという意味です。英語聖書はWe haveと直訳しています。車のキーを持っているか、持っていないかが明瞭なように、持つという動詞は、今、この手に何かを持っていることを確認させてくれます。

 地球は回っていると私たちは言いますが、現在形で言います。普遍的な真理を説明したい時は現在形を使うものです。遠い昔に父なる神がして下さった霊的祝福だけでなく、今、現在、私たちは確かに贖いを持っています。罪の赦しをしっかりと持っています。それは、今日も真理であり、明日も変わりません。

 

2、贖いと赦しは一つ

 旧約聖書には「贖い」という言葉が何度も出てきます。ルツ記のテーマも贖いでした。
 「あなたの御名はとこしえから『わたしたちの贖い主』」(イザヤ書63:16)と言われていました。

 借金を背負い、やむなく先祖代々の土地を売り払うことがあります。親戚のだれかが大金を払ってその土地を買い戻してくれることもありましたが、その行為を「贖い」と呼びました。土地を持っていなければ、自分を奴隷に売って借金を払う場合もありました。奴隷になったその人を自由にするため誰かがお金を払ってくれる場合も「贖い」といいます。

 かつての私たちは、罪を犯し滅びという刑罰を避けられず、罪の奴隷としての毎日を送っていました。主イエスは「その血による贖い」、つまりご自分の血を流して命という代価を払って私たちを自由の身とし滅びから救い出して下さいました。

 「多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)

 罪のことはギリシア語でハマルティアと言い、新約聖書に175回登場します。でも今日の箇所ではパラプトーマという別な言葉が使われて「背きの罪」と訳されています。どんな罪も赦されます。私たちの善行や努力で赦されるのではなく、「神の豊かな恵み」によって赦されるのです。

 贖いと罪の赦しは一つの事です。十字架で主イエスの命がささげられたという客観的な側面に立てば、贖われたと理解できます。罪人の立場に立てば、罪が赦されたということが分かるのです。

 

3、イースターとの関連  

 パウロは第一コリント15:17で主イエスの復活と罪の赦しの関係に触れ、キリストがよみがえらなかったらあなたがたは今もなお罪の中にいると述べました。主イエスが十字架で死なれただけでは不十分で、復活がなければ贖いは完成せず、罪の赦しの確証もないと説明しました。贖いも赦しも持っていると私たちが言えるのはイースターのおかげなのです。

 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:25)

 マルコの福音書16章に女性達が主イエスの葬られた墓に向かう様子が書いてあります。主イエスの死を悲しみながらも、香油を塗って最後のお別れをしたいという気持ちが伝わってきます。大きな石をどうやって動かすかの具体案はないまま、気持ちだけが先に進んで行きました。見ると、石はどかされ、中が見えました。天使が現れこう言いました。

 「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコ16:6)

 ハレルヤ!主イエスは2000年前の今日、イースターに、よみがえって下さいました。主は今日も生きておられます。それゆえ私たちは大きな声で確信を持ってこう言えます。「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。」

 □私たちは贖いと罪のゆるしを持っています
 □主イエスのよみがえりが救いの確証です

2022年4月10日日曜日

エペソ1:6

それは、神がその愛する方にあって
私たちに与えてくださった恵みの栄光が、
ほめたたえられるためです。(エペソ1:6)

1、それは

 冒頭の接続詞「それは」は、3~5節の内容を受けています。父なる神は、私たちを選び、また、私たちをご自分の子にしようとあらかじめ決めておられました。「それは」驚くべき恵みなので、自然に神をほめたたえたくなります。

3~14節は切れ目の無い長い文章です。その総まとめは14節に書かれてあり、神をほめたたえる人になろう、ということです。6節ではその結論を先取りし、「恵みの栄光がほめたたえられるためです」と書いています。音楽で中心になるメロディーが繰り返されるようにパウロは重要事項を何度も書きました。

霊的祝福のリストを1章に書いているのは、受けた恵みの素晴らしさを思い出すためです。気づいていなかった恵みも理解してほしかったのです。多くの祝福を受けていると分かれば、賛美の姿勢が変わります。

2、その愛する方

「その愛する方」とありますが誰のことでしょう。

主イエスさまと弟子たちが山に登った事が福音書に書いてあります。そこでイエスさまの顔は太陽のように光り、衣が白く輝きました。イエスさまはこの時まで神としての栄光を隠しておられたのです。イエスさまは本来の栄光の輝きをペテロを含む三人の弟子たちにお示しになりました。その時、天から父なる神の声がして、「これはわたしの愛する子」(マタイ17:5)と言われました。今日の箇所で「愛する方」と言われているのがイエスさまだと分かります。

父なる神が私たちを選び、私たちを子にするためには、愛してやまない一人子イエスさまの命と引き換えにしなければなりませんでした。父なる神が「愛する方」にあってして下さった事は深い恵みであり、その恵みは神の栄光で輝いています。

3、恵みの栄光

太陽と太陽の光を分けることは不可能です。それと同じように、神と神の栄光を分けることも困難です。私たちは神の存在をたたえつつ、神が下さった霊的な祝福を感謝します。神の下さった霊的祝福を一言で言い換えれば「恵み」と言うこともできます。ですから、私たちは与えられた恵みを感謝し、同時に、恵みが発している栄光に気づくので栄光の源である父なる神をたたえます。

ウエストミンスター小教理問答(1648年)はイギリスで作られましたが、その中に有名な質問があります。「人の主たる目的は何か?」という質問です。答えは、「人の主たる目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである。」この回答の根拠とされているみことばは、第一コリント10:31で、「食べるにも飲むに、何をするにもすべて神の栄光を現わすためにしなさい。」ローマ11:36においても、「すべてのものが神から発し、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」と書かれています。

身近な人をほめたり、感謝したりすることの少ない人は、心の中の<賛美・感謝・礼拝スイッチ>が錆びついている人です。意識してまず家族をほめましょう。その服、似合ってると言ってあげましょう。ありがとうを家族の中で美しく言いましょう。そうしていると、神への賛美の言葉が増えていきます。

霊的祝福をたくさん頂いていると気づけば、礼拝する時に神への深い賛美をささげられます。礼拝や賛美が深まっていくと、普段の仕事や生活の仕方が変えられ、神の栄光をあらわす仕事をしたくなるのです。

今週、神と神の栄光をたたえて歩みましょう。神の栄光のために生きていきましょう。

 □たくさんの霊的祝福を下った神を賛美します
□栄光を隠されたイエスさまをたたえます

□私は神の栄光をあらわす人生をおくります

2022年4月3日日曜日

エペソ1:5

神は、みこころの良しとするところにしたがって、
私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:5)

 霊的祝福の第二番目は、神の子にして頂く事です。神はあらかじめ、私たちを神の子にすると決めておられました。

1、みこころの良しに基づき

私たちは偶然に神の子になったのではありません。神はご自分の考えではっきりとお決めになったのです。「良し」とはユードキアという言葉で喜びを意味します。神は私たちを子にするとお決めになった時、喜んでおられました。

2、イエス・キリストによって

神の子になるという事は、分かりやすく言えば養子縁組です。その手続に深く関わって下さったのが救い主イエスさまです。3~14節は長い一つの文章になっていますが、「キリストによって」「キリストにあって」という表現をパウロは意図的に繰り返しました。人間が良い行いをしても神の子にはなれません。十字架にかかられたイエスさまを通して神との道が開かれたのです。

3、あらかじめ定められた

神の子になる事について最も有名な聖句はヨハネ1:12です。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」主イエスを信じたので神の子になれたと、私たちは理解してきました。

ところが、今日の箇所エペソ1:5を見ると、父なる神が私たちより先に、私たちをご自分の子にするとあらかじめ定めていたことが分かります。

イエスさまが「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び」(ヨハネ15:16)と言われましたが、私たちが神の子になれたのも、神がすでに心で決めておられた事が先行していたのです。

4、ご自分の子にしようと

神は、私たちを罪の奴隷状態から、滅びから救い出して下さいました。でも、救われた者をそのまま放置したら元の木阿弥になってしまいます。救われた者を神の家族の中に受け入れ、心を通じ合わせ、神と共に生きる素晴らしさを教えてあげたいと神は考えました。最終的には、神が持っておられる最良のものを与えたい、財産の全部を引き継がせたいとお考えになったのです。(ローマ8:15~17)

主イエスが語られた放蕩息子のたとえは、神の子とはどんな立場なのかを教えてくれます。息子は父からもらった財産を使い果たし、食べ物もなく、乞食の姿になって実家に戻りました。父は息子を見つけて走り寄り、息子は父にこう言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」(ルカ15:21)自分の罪やふがいなさ、父への反発や親不孝など考えると、子供の資格が無いと考えたのです。けれども父は、放蕩息子に良い着物を着せ、指輪をはめ、子牛をほふってごちそうを振る舞いました。

父なる神は、私たちを本当の実子と扱い、愛し、与え、支え、喜び、決して離れないとお決めになったのです。

5、人間の親たち

 若い夫婦は、赤ちゃんのいる生活を夢見て将来を楽しそうに語り合います。まだ妊娠するはるか前から、まだ見ぬ子供をすでに自分たちの子供にしています。

 二人は、出産日の前に、子供に着せる服を買い、ベビーベッドを用意し、子供の名前の候補を100も選んだりします。赤ちゃんが生まれて来たら、私がママよ、僕がパパだと自己紹介します。そして言います、あなたは私たちの子供だよ。あなたに必要なものはすべて与える。
 お母さんは出産の時、文字通り命をかけて赤ちゃんを産みます。生まれた子供が大きくなった時、お母さんがどんなに苦労して生んでくれたか、お父さんがどんなに頑張って仕事をしてくれたかが分かると、親への感謝と尊敬が自然に生まれます。

 父なる神が、まだ見ぬ私たちを子にすることを楽しみにしておられたと知ると、私たちも神への感謝と賛美が生まれてきます。3~14節の神への壮大な賛美の言葉はこうして生まれたのです。

 

 □神は私の事をずっと前から喜んでおられた
 □私は神の家族の一員、神の子どもになっている

 □素晴らしい神をほめたたえよう

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...